京師賀茂祭之事 前篇

 昨日は五月十五日、賀茂祭(通称「葵祭」ですが正式には「賀茂祭」です)の路頭の儀・社頭の儀が無事奉修されたようです。

 私もかつて京師に遊学していた頃、一度だけ見に行きました。もう七年程前の話ですのでほとんど覚えていませんが…しかし、その後賀茂祭について調べる機会があったので今回はこのお祭りの凄さを記したいと思います。

 京都三大祭りと言えば、「祇園祭」「時代祭」、そして「賀茂祭葵祭)」ですが、この中でも時代祭は近代にできたお祭り、祇園祭は本来悪霊を払う御霊会という神仏習合の色濃いお祭り(そもそも祇園社は「祇園感神院」とも称されていた)で室町時代以降は京都の町衆・民衆のパワーを感じるお祭りです。ところが賀茂祭だけは大変に古く、また王権とも深くかかわる行事なのです。

 上賀茂神社(正式には賀茂別雷神社)・下鴨神社(正式には賀茂御祖神社)はもともと山城国に住む賀茂氏氏神で、『続日本紀』の文武天皇二年(698)に賀茂社の祭礼の記事が見え、『万葉集』にも大伴坂上郎女賀茂神社の帰途に詠んだ歌が残っているという大変に由緒ある神様です。
 またこの頃から賀茂社の祭礼というのは盛大に行われ、矢を射ることで時にけが人が出るほどでした。この為、奈良時代には禁止令がたびたび出ています。(井上光貞氏は8世紀中ごろに上賀茂・下鴨両社に分かれた理由は上賀茂社の祭の盛大に手を焼いた国家の宗教政策の結果ともみられると指摘しています)
 
 山城国・賀茂県主氏の氏神に過ぎなかった賀茂社に一大転機が起きます。長岡遷都、さらに平安遷都です。
 

延暦三年(784) 長岡京への遷都に伴い賀茂社に参議近衛中将正四位上朝臣船守を派遣して奉幣・遷都報告。その後すぐに上賀茂・下鴨両社の社殿が朝廷によって造営され従二位の神階が授けられる。
 ・延暦十三年(794) 平安京遷都に伴い参議治部卿壱志濃王(皇族)が奉幣・遷都報告。(従来伊勢神宮にしか見られなかった皇族の派遣)
 ・嵯峨天皇の御代 両賀茂社正一位の神階を授けられる。
 ・嵯峨天皇の皇女有智子内親王が斎王(俗称は「斎院」)となり、鎌倉時代初期の後鳥羽天皇の皇女礼子内親王が最後の斎王となるまで35人の斎王が任命される。 

 これらの事は賀茂社奈良盆地における大神神社に代わる王城鎮護の役割を担い、更に皇祖神である伊勢神宮に比するような待遇を受けたことをあらわします。

 ここで一つ注目したいのは京都の西、松尾大社です。賀茂氏と同じく古代から深く山城に根を張った氏族が渡来人系の秦氏です。この秦氏氏神松尾大社なのです。(因みに国宝弥勒菩薩半跏像で知られる京都・広隆寺秦氏の氏寺ですし、「太秦」という地名は秦氏の名残です)

 ではこの松尾大社賀茂社のように厚遇されなかったのか?…ちゃんと長岡京遷都時に従五位下に叙せられています。そして余り知られていないことですが、古くは賀茂祭の際には松尾大社にも幣帛が授けられていたようです。即ち、平安京鎮護の社として両賀茂社と松尾社は大変厚遇されているのです。このことは、秦氏が長岡遷都・平城遷都にはたした役割や桓武天皇の母・高野新笠のことも含めて興味深いところです。

…後編では実際の路頭の儀・社頭の儀の事に触れたいと思います。

「京師賀茂祭之事 後篇」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110518/1305719658