京師知恩院之事

 長く京都に逗留してました。
今回縁あって知恩院(浄土宗総本山)に数日通いましたが、三門から男坂通って伽藍に辿り着くまでキツイのなんの。

 

今年は法然上人の八百年御遠忌(本来春の予定でしたが秋に変更になりました)ということで、国宝三門の二層目部分と伽藍を図のように回廊でつないでいます。
…となると気付くことがあります。知恩院三門といえば高さ24メートル、幅50メートル、瓦7万枚という古建築の中では最大級の門です。男坂は10メートル以上一気に上がるような急な坂になっているということです。

 この事実は知恩院のもつ地政学的位置に由来します。徳川家の宗旨は浄土宗(祈願所とか墓所とかさまざまな宗派にありますが)です。
知恩院は江戸時代、大旦那である幕府によって巨大普請を繰り返されます。巨大な三門・御影堂、長大な石垣…一朝事ある時はいつでも城郭に代わるのです。

広大な敷地と大きな建物を持つ寺院を後詰や前衛所として使用する発想は、大なり小なり城下町設計に使用されます。伊達政宗ゆかりの松島・瑞巌寺もその機能があるとも言われています。


 
 この図は京都の現在地図ですが、浄土宗総本山である知恩院と浄土宗大本山金戒光明寺は江戸時代の大幹線道路である三条通東海道中山道の終点)を挟むような形になっています。
このニ寺院は城造りになっており、山門・石垣を有します。もし瀬田から大津・山科へと敵が京都に近付く有事の際は、黒谷と知恩院に兵を急派すれば三条通を封鎖できるという発想でしょう。現に風雲急を告げた幕末、京都守護職松平容保侯は金戒光明寺を本陣としました。三条通京都御所に見事に睨みを利かせられる場所です。京都に住んだことある方ならわかるように幕府の京都での中心、二条城は若干西寄りにあります。この点を補う機能をはたしていたわけです。
 二百五十年の泰平の後にはあまり機能しなかった有事体制ですが、徳川幕府のこの危機管理は現代でも考えさせられるところです。

 話は変わりますが、法然上人は江戸時代元禄年間に「円光大師」という大師号を賜って以来、御遠忌の度に大師号を賜るという特殊な習慣があります。

  大師号   天皇       年 号
 円光大師  東山天皇   元禄10年(1697)
 東漸大師  中御門天皇  宝永8年(1711)  五百回忌
 慧成大師  桃園天皇   宝暦11年(1761) 五百五十回忌
 弘覚大師  光格天皇   文化8年(1811)  六百回忌
 慈教大師  孝明天皇   万延2年(1861)   六百五十回忌
 明照大師  明治天皇   明治44年(1911) 七百回忌
 和順大師  昭和天皇   昭和36年(1961) 七百五十回忌


 そして今年、「法爾大師」という謚号を賜りました。一人で8つの大師号というのは例がないことなのですが、どこまで続くのでしょうか?
俗に「大師は弘法にとられ、太閤は秀吉にとられ」といいます。一般的に「お大師さん」というと弘法大師のことを指すことから起った言葉ですが、個人的には大師号は一つでたいへんに尊いものと思います。

   月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ

 これは法然上人の御作で「月光の照らさない所はないがそれに気付き一心に見る人にしかわからないように、仏の慈しみもみんなを照らしているけども一心に念ずる人こそ救いの心が生まれる」というような大意で、なるほど味がある和歌なのですが、「円光大師」という法然上人の最初の大師号はこの歌にも通じる大変有難い謚号だなぁと思います。