京師櫟谷七野神社之事

「京師賀茂祭之事 後篇」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110518/1305719658

 葵祭の記事で少しふれた櫟谷七野神社ですが、先日京都に行った際にひょんなことから訪ねてきました。

 …とその前に訂正です。前回の葵祭巡行路の地図は現在の京都御所の位置から斎院のある西陣、勅使との集合場所である一条大宮を記していました。しかし考えれば平安時代大内裏は現在と位置が違いますから全く見当はずれです。訂正しておきます。正確には誤差があるでしょうが、だいたい大内裏の北限を一条通、西限を大宮通として記しています。

 さて櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)、場所を申しますと「京都市上京区大宮通芦山寺上ル西入社横町」…京都に通じておられる方でも想像しにくいと思います。
筆者空山房は別にこの神社目的で行ったわけではありません。学生時代によく行っていた鳥岩楼という老舗で昼の親子丼(800円)を久々に食べようと西陣五辻通りに行ったのですが、11時からと思っていたら12時からだった為に時間が余ったからです。…ということで一番わかりやすい行き方は、今出川大宮(交番がある小さな交差点)を北へずっと上がってかなり歩くともう一つ交番があります。そこを東に入っていくと、袋小路のようになっていて民家の間に鳥居があります。その先が駐車場になっていて奥が櫟谷七野神社です。

 境内に「賀茂斎院跡」の碑もあり、案内板には以下のように書かれていました。

 賀茂斎院跡
 賀茂斎院は、賀茂神社に奉仕する斎王の常の御所であった。
それは平安宮の北方の紫野、すなわち大宮末路の西、安居院大路の北(現在の上京区大宮通の西、廬山寺通の北)に位置し、約五十メートル四方の地を占めていた。斎王は嵯峨天皇の皇女・有智子内親王を初代とし(弘仁元年に卜定)、歴世皇女(内親王に適任者を欠く場合には女王)が補されたが、伊勢の斎宮とは異なり、天皇崩御または譲位があっても必ずしも退下しなかった。
 斎院は内院と外院から構成され、内院には神殿、斎王の起居する寝殿等があり、外院には斎院司、客殿、炊殿等があった。
 毎年四月、中の酉の日に催される賀茂の祭(葵祭)には、斎王は斎院を出御し、勅使の行列と一条大宮で合流し、一条大路を東行して両賀茂社に参拝した。斎王のみは上賀茂の神舘に宿泊され、翌日はまた行列をなして斎院に還御されたが、それは「祭の帰えさ」と呼ばれ、これまた見物対象となっていた。代々の斎王はここで清浄な生活を送り、第35代礼子内親王後鳥羽天皇皇女)に至った。この内親王は建暦ニ年(西紀 一二一二年)に病の為退下されたが、以後は財政的な理由から斎院は廃絶した。
 歴代の斎王に侍る女房には才媛が少なからず、ために斎院は歌壇としても知られていた。斎院の停廃後、その敷地は廬山寺に施入され、応仁・文明の乱(一四六七〜一四七七)の後、都の荒廃とともに歴史の中に 埋もれてしまったのである。

  平成十三年十一月
            財団法人古代学協会
                      角田文衞

 角田文衞博士(1913−2008)は京都大学の出身で濱田耕作門下の歴史学者です。古代史の大家で考古学から西洋史学まで大変範囲の広い博学でした。紫式部の研究でも知られ、現在の廬山寺の場所を紫式部邸宅跡だと論証されたのも氏です。(実にややこしいのですが、廬山寺は安土桃山時代まで櫟谷七野神社のある西陣にあり、秀吉の京都改造によって寺町に移りました。なので賀茂斎院跡→紫式部邸宅跡に移ったことになります)

 佐々木昇氏の『知識ゼロからの京都の神社』(幻冬舎・2010年)によりますと以下のようにあります。

 祭神:武甕槌命経津主命天児屋根命・比売命
  昔は七野社といった。平安時代の前期、染殿皇后の祈願により、奈良・三笠山の春日明神を勧請した。その後、伊勢・石清水・稲荷・賀茂・松尾・平野の六神を勧請し、「七の社」と号したという。
  また異説に、洛北にある北野・平野・蓮台野など、「野」の付く七つの地名、七野の惣社とも伝わる。
  江戸初期の『雍州府誌』には次の逸話がある。宇多天皇の皇后である藤原温子(東七条后)が、帝の愛が薄れたと感じていた時、夢でこの社の前に白砂で三笠山の形を作って願えばその思いが届くというお告げが あり、その通りにすると寵愛が戻った。それ以来本殿前に盛る白砂の山を「高砂山」と呼び、浮気の虫封じぶ霊験があるとされる。

 染殿皇后といえば文徳天皇の后ですから、斎院が出来た年代より後になります。しかし賀茂斎院自体が角田博士の記されているように「歴史の中に埋もれてしまった」ので七野社の付けたりになっているのはいたしかたないことかもしれません。
 …京都に関しては何回行っても新しい発見があり、そのたびに勉強になります。