河原林雄太陸軍少尉の履歴書 前篇

福岡縣士族 元小倉縣
河原林雄太
嘉永元年(1848)八月十五日生

明治三年七月十五日(1870) 常備五番小隊半隊長被申付 豊津藩
同年八月一日        東京為御警備上京外櫻田日比谷両御門警衞被申付 豊津藩
明治四年(1871)四月五日  歸藩被申付 豊津藩
同年五月十六日       練兵御用掛被申付 豊津藩
同年六月五日        練兵御用掛被免 豊津藩
同年六月十五日       西海道鎮台第二大隊豊後日田出張被申付 豊津藩
同年六月廿八日       分隊長教官助被申付 豊津藩
同年九月五日        久留米出張被申付 豊津藩
同年十月十九日       鎮台解兵ニ付皈縣被申付 豊津藩
同年十一月十四日      被本官免 豊津藩
同年十一月二十七日     鎮西鎮台召集ニ付軍曹心得ニテ熊本縣出張被申付 豊津藩
同年十二月廿四日      入営被申付 熊本鎮臺
明治五年(1872)正月廿五日 四等軍曹被申付 鎮西鎮臺
同年四月十三日       三等軍曹被申付 鎮西鎮台
同年六月十二日       歩兵第十二大隊一番小隊付被申付 鎮西鎮臺
同年八月八日        長嵜出張被申付 鎮西鎮臺
同年十月十四日       皈臺被申付 熊本鎮台
同年十月廿二日       二等軍曹被申付 熊本鎮台
同六年(1873)五月一日   一等軍曹被申付 熊本鎮台
明治六年六月十四日     福岡縣農民暴擧ニ付同縣出張被申付 熊本鎮台
同年八月十五日       歸台被申付
同年九月一日        歩兵第十一大隊第一中隊付被申付 熊本鎮台
同年九月三日        曹長勤務被申付
同七年(1874)二月十四日  佐賀縣貫属暴動ニ付同縣出張被申付 熊本鎮台
同年二月廿二日ヨリ同年三月一日迠  戦闘
同年三月九日        帰台被申付
明治七年四月五日      東伏見宮為御守衞佐賀縣出張被申付 熊本鎮台
同年四月五日        被任陸軍少尉
同年四月十八日       歩兵第十一大隊第一中隊付被仰付
同年四月廿五日       皈臺被仰付
同年八月廿八日       台湾蕃地出張被被仰付
同年十一月十日       依病気為養生長嵜病院迠差遣 蕃地都督府
同年十一月十五日      長嵜着港
同年十二月         病気全快ニ付皈台
同年十二月十二日      歩兵第十一大隊病気全快ノ者為取締福岡縣博多出張被仰付
同年十二月十七日      福岡縣管下博多屯在被仰付
明治八年(1875)三月廿九日 歩兵第十一大隊第一中隊付被免更ニ同第十四聯隊旗手被仰付
同年六月三十日       被叙正八位
同年七月廿一日       軍旗為拝受上京被仰付
同年九月九日        軍旗御授與相成即日皈隊
同年九月廿日        熊本着臺同■滞在被仰付
明治八年九月廿二日     皈隊被仰付 熊本鎮台
同年九月廿八日       為迎旗出臺被仰付

※(西暦)は参考として付与した。

 縁あってある史料に出会いました。「河原林雄太陸軍少尉履歴書」です。
 河原林少尉といっても現代には馴染みの薄い名前かもしれません。しかし、戦前では大変著名でした。明治十年、西郷隆盛の上京を機に起きた西南戦争において政府軍の将校として出征した人物なのですが、この時の詳しい話は後篇に譲ります。

 さて、この史料を見ると明治初年にどのようにして旧来の武士(士族)が鎮台兵(明治新政府の正規軍)に取り込まれていったのかがわかります。
 河原林少尉(以下この通称を用います)の出身藩である豊前小倉藩(小笠原氏・十五万石)は慶応二年(1866)六月、第二次長州征伐の荒波に飲みこまれます。当時小倉藩は藩主小笠原忠幹が前年の慶応元年に死去し、嗣子豊千代丸は四歳ということで、維新の嵐の中藩論の全く定まらない状況でした。とはいえ小笠原家は徳川家康の外曾孫にあたる家系ですし、特に「九州探題」を名乗っていたこともありもちろん佐幕藩でした。第二次長州征伐に際しては幕府の代表として老中小笠原長行唐津藩・小笠原分家)が九州方面総督として小倉で九州諸藩の指揮をとりました。しかし、逆に高杉晋作山県有朋率いる長州軍に小倉に上陸され、小笠原長行の撤退・九州諸藩の離反の中、小倉藩勢は自ら小倉城に火をかけ香春(現在の田川郡香春町)に落ち延びます。
 その後の講和の結果小倉城を中心とする企救郡長州藩に奪われ、明治になっても廃藩置県まで国の直轄地になってしまいます。小笠原家は藩庁を豊津(現在の行橋市)に移し豊津藩と称しますが、藩祖忠真公以来の小倉の地を去った藩士達は佐幕藩の苦労を嫌というほど味わうのです。戊辰戦争に際しても十五万石並の軍役や軍用金を申付けられましたから、藩士が貧乏しない訳がありません。

 河原林少尉は嘉永元年(1848)の生まれですから、第二次長州征伐の時点で数えの19歳、おそらくは若い藩士として苦労を味わったでしょう。
 そして維新の嵐も過ぎ去り旧藩主がそのまま知藩事となっていた明治三年(22歳)、豊津藩の常備五番小隊半隊長となっています。この年から翌明治四年にかけては東京で皇居警備の任についていますから、御親兵薩長土を中心に明治四年に集められた近衛兵の前身)以外にもこういう任務があったようです。小倉に帰ると今度は西海道鎮台日田分営に出ています。
 明治政府は明治四年に御親兵東山道鎮台(石巻)・西海道鎮台(小倉)を設置し、この武力を背景に廃藩置県を行いました。これによって全国を直轄地としたわけですが、この時点の鎮台というのは各藩に戦力を割り当てて出させたようで、豊津藩は日田分営の要員にあてられました。この履歴書でも「日田出張被申付 豊津藩」とあり、あくまで旧藩からの出向といったところでしょうか。こう見ると自分で書いててなんですが廃藩置県の背景に鎮台の武力は余り関係していないでしょう。
 とはいえこの日田出向は小倉藩士のその後を変えます。明治四年八月には西海道鎮台は廃止され、東京・仙台・大阪・熊本に鎮台が置かれます。これに伴って河原林少尉も十二月熊本鎮台(明治五年四月までは鎮西鎮台と称した)に軍曹心得として召集されます。ここでようやく「豊津藩」の人間ではなくなったのです。武士から士族へ…という意識の変化はこのあたりでしょうか。

 明治五年正月に「四等軍曹」となっています。この名称が調べてもよくわからないのですが…「一等軍曹」・「二等軍曹」という呼称は見当たるのですが。わかり次第補足します。その後順調に任官され、明治六年の筑前竹槍一揆(史料では「福岡縣農民暴擧」)、明治七年の佐賀の乱(史料では「佐賀縣貫属暴動」)、同じく明治七年の台湾征討(史料では「台湾蕃地出張」)と治安出動・出征しています。そして明治八年、少尉に任官され新設の歩兵第十四連隊の連隊旗旗手に任じられます。第十四連隊が新設されたのは河原林少尉の故地小倉。19歳の時に長州藩に小倉から追われた河原林少尉にとっては感無量だったでしょう。運命の西南戦争のはじまる二年前でした。


 ここまで河原林少尉を通じて佐幕藩の藩士日本陸軍将校へと移行する様子を見てきました。この小倉藩、草創期の日本陸軍にかなりの人物を輩出しています。その代表的な二人の人物の経歴をみて河原林少尉と比べてみたいと思います。

 一人目は河原林少尉と同じく嘉永元年生まれの小川又次陸軍大将を見ましょう。小川大将は「今謙信」と称され、日本陸軍の祖メッケル少佐にその才能を称賛された優秀な将軍でした。小倉藩出身ながら山県有朋に重用され日清戦争では第一軍参謀長、日露戦争では第四師団師団長として出征した日本陸軍史に輝く人物です。

小川又次
嘉永元年(1848)七月二十四日生
明治三年七月 兵学寮生徒
明治四年一月 権曹長心得
明治四年十二月 少尉心得
明治五年二月 少尉
明治五年五月 中尉
明治六年四月 大尉
明治七年四月 台湾征討従軍
明治八年一月 東京鎮台第一連隊付
明治九年四月 歩兵十三連隊大隊長心得
明治十年二月 西南戦争従軍

 小川大将の経歴を見ると、明治初年から陸軍士官学校の前身、兵学寮に入っており、河原林少尉とは比べられない速さの任官です。端的にいえば草創期の陸軍において、同年齢であっても当初の学歴・戦歴によってこれほど相違があるということです。もちろん小川大将が優秀だったことは間違えないのですが…

 二人目は奥保鞏元帥陸軍大将です。奥元帥は日本陸軍屈指の指揮能力と古武士の風格を持ち、皇族・薩摩藩長州藩出身者を除いて初めて元帥に任命されました。日清戦争では第五師団長、日露戦争では第二軍司令官として出征しました。特に日露戦争では薩摩・長州出身以外で唯一の軍司令官であり、参謀なしで近代軍事戦術を理解できる将軍でした。後には伯爵・参謀総長にまでなっている大人物です。河原林少尉よりは2歳年上で、小倉藩でも三〇〇石の家柄の上士でした。

奥 保鞏
弘化三年(1846)十一月十九日生
明治二年一月 足軽隊長
同年二月 東京遊学
明治四年五月 豊津藩常備四番小隊長
同年六月 西海鎮台二番大隊小隊長
同年十一月 陸軍大尉心得・西海鎮台
明治五年四月 大尉・鹿児島分営所
明治六年八月 熊本鎮台中隊長
明治七年二月 佐賀の乱出征
明治七年六月 少佐・歩兵第十一大隊長
明治七年八月 台湾征討出征
明治八年二月 歩兵十三連隊大隊長
明治十年二月 西南戦争出征
明治十年四月 熊本鎮台歩兵第十四連隊長心得
明治十一年十一月 中佐・歩兵第十四連隊長

 もちろん階級は奥元帥の方が上ですが、かなり河原林少尉と経歴が似ています。特に明治七年六月からは同じ歩兵第十一大隊で勤務し台湾にも同じ部隊で出征しています。佐幕藩の藩士が鎮台兵となり、日本陸軍の草創に関わっていく過程がよくわかります。

 次回は河原林少尉と西南戦争について書きます。

〜河原林少尉の出生年に関して〜 
 今回見た史料によると河原林少尉の生年月日は嘉永元年(1848)八月十五日となっています。しかし、秦郁彦氏編の『日本陸海軍総合事典』(東京大学出版会・1991年)には「慶応元年3月9日」とあります。どのような史料を参考にされたかは不明ですが、慶応元年というと西暦1865年、鎮台召集時点で6歳となり完全な間違いであると考えます。今回見た史料は大正年間に小倉市役所に提出されたものの写しと考えられますので、嘉永元年生を適当と判断します。


《参考文献》
・歩兵第十四連隊史編纂委員会編『歩兵第十四連隊史』(1987年)
・米津三郎編『読む絵巻 小倉』(1990年)
半藤一利・横山恵一・秦郁彦・原剛『歴代陸軍大将全覧 明治編』(2009年・中公新書