四座講式と明恵上人

四座講式とは鎌倉時代初め京都栂尾高山寺の明恵上人によって造られたお釈迦様の一代記です。
この講式に独特の節をつけて(声明)お唱えするのですが、これは謡曲浄瑠璃長唄の元になったものとされるほど優美な音動を持ちます。

明恵上人は承安3年(1173)紀伊国有田郡に武士平重国の子として生まれます。その一生はとにかく強烈です。有名なエピソードをあげると…
・2歳の時、清水寺に猿楽を見ようと乳母が上人を連れていったが、御堂での読経や礼拝を聞くと落ち着いているのに、肝心の猿楽の舞台を見ていると「見たくない」と泣き叫んだ。
・4歳の時、上人の美しい顔を見た父が戯れに烏帽子をかぶせて「うつくしい!御所に奉公させよう」というと法師になりたかった上人はその場で縁側から落ちて顔に傷をつけようとした。
・また火箸を顔に当てようとして大騒動。

その後父母との別離を経て念願かなって僧になりますが…
・13歳の時、「老いてしまった!」と悲嘆して三昧原(死体の遺棄場所)に一晩寝て野犬に喰われ捨身しようとしたが無事だった。
・夢によく天竺の僧が出てきて現実に起きることを予見する。

そして最大の出来事…上人は自ら右耳を切ってしまうのです。それは強烈な自己への反省と戒めからのことでした。

このように明恵上人のエピソードだけで軽く本が書けるほど魅力的な方なのです。
上人は大変な学僧で、華厳と密教を兼学し「厳密の祖」と称され、法然の『選択本願念仏集』に対して強く批判し『摧邪輪』をあらわします。歴代の天皇女院北条泰時の帰依を受けながら寛喜4年(1232)遷化されます。


明恵上人はお釈迦様を大変恋慕した方でした。
遺跡講式に「これを恋うること男女の恋にも過ぎたり」という有名なフレーズが出てきますが、まさに上人はこの通りだったのです。
現に上人は2度インドへの渡航を計画します。しかし春日明神の「天竺に行くのは危険である。日本において衆生済度につとめよ」というご託宣により断念します。
伝説では春日明神が「その代わりに釈尊の一代記と遺跡の情景を見せてやろう」と明恵上人に見せ、それを想って完成したのが四座講式と言われます。

では『梅尾明恵上人伝記』より上人が自らお造りになった四座講式の法会を行った記事を引用します。

 建保三年乙亥二月十五日、殊に志を励まして涅槃会を梅尾に於いて行ひ給へり。昔時山林深谷に跡をくらまし給ひし時も、山中の樹を荘りて菩提樹と号し、瓦石を重ねて金剛座とす。至れる所を道場として西天今夜の風儀を写し、終夜仏号を唱えて双林・跋提河の景気を学ぶ。菩提樹と号する木の下に石を重ね積みて其の上に一丈計りなる率都婆を立てて、上人自ら南無摩竭陀国伽耶城辺菩提樹下成仏宝塔と書き給ふ。更に其の前に木の葉を重ねて講経説法の座とす。彼の西天菩提樹下の今夜の儀式を聞くに、国王・王子・群臣・黎庶、覚樹枯衰の姿を見るに、終夜悲恋に堪へずして各蘇合・油香・香乳を灑くらん有様、哀れに悲しき儀を想像りて、泣々水を以て樹下に洒き、供養を述ぶ。哀れなる哉、其の儀式浅きに似たりと云へども、併ら恋慕悲嘆の志より起れり。上人自ら四巻の式を草し給へり。今世間に流布して多く之を用いる。
『梅尾明恵上人伝記』巻上

これを読めば明恵上人の切々たる気持ちが伝わります。

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