松田真平氏「野中寺弥勒菩薩像の銘文読解と制作年についての考証」 前篇

 今回紹介したい論文は松田真平氏「野中寺弥勒菩薩像の銘文読解と制作年についての考証」(『佛教藝術』313号 2010年11月)です。
   

佛教藝術 313号

佛教藝術 313号

 大阪・羽曳野市に「中の太子」として知られる野中寺(やちゅうじ)というお寺があります。このお寺の弥勒菩薩像(重文・金銅仏)は30、9センチという小さな仏さまですが、歴史学・美術史にわたる大きな論争の的になっています。

 というのは、この像の台座部分に62文字の銘文(金文)があるのですが、銘文に従うと天智5年(666)であるこの銘文は、本当はいつ彫られたものか?
 美術史としては白鳳時代の始まりの指標となるこの仏像が本当はいつ造られたのか?

 はじまりは東野治之氏の「野中寺弥勒像台座銘の再検討」(『国語と国文学』77(11)2000年)でした。東野氏というと2010年には紫綬褒章を受章された日本古代史の大家ですが、氏は像自体は7世紀末の造で銘文は仏像の存在と銘文の発見がスクープされた大正7年頃の追刻銘でないかと提起されました。
 以後歴史学の研究者の間ではこの銘文を偽銘・追刻銘とし、像自体も7世紀末〜8世紀の造という見解が圧倒的に多くなりました。
 特に冒頭の「丙寅年四月大■八日癸卯開記」の■を東野氏は「旧」と読み、元嘉暦(旧暦)と儀鳳暦(新暦)の併用された持統4年(690)以前の銘ではありえないとされました。
 
 これに対して麻木脩平氏が「野中寺弥勒菩薩半迦像の制作時期と台座銘文」(『佛教美術』256号 2001年5月)で東野氏に反論し、美術史上666年造という見方は動かず、銘文も■を「朔」と読み、像の作成直後に入れられたものと主張しました。また江戸時代の『河内国名所図会』に「弥勒仏金像」とあり、近代以前半迦思惟像がほとんど如意輪観音と考えられていた(有名な広隆寺の宝髻弥勒さえそう思われていた)にも関わらず、「弥勒」とあるのは銘文があったからだと主張しました。

これに対し東野氏が「野中寺弥勒像銘文再説―麻木脩平氏の批判に接して」(『佛教藝術』258号 2001年9月)で反論。やはり■は「旧」であり、銘文があったのなら『河内国名所図会』に銘文自体が掲載されるはずだと反論しました。

 さらに麻木氏が「再び野中寺弥勒像台座銘文を論ず―東野治之氏の反論に応える―」(『佛教藝術』264号 2002年9月)で再反論。「舊」を「旧」とは略さず、■は「朔」である。また、大正4年以前はこの像は秘仏とされており新聞報道の如く蔵に埋もれていたものではなく、新納忠之介氏(明治期の有名な美術評論家フェノロサ岡倉天心らと並んで日本中の秘仏を開けてまわった人)の鑑識もうけていたことなどをもって東野氏に反論し、さらに問題点を絞って提示しました。

 この銘文がここまでアツくなった背景には、銘文に「天皇」という文字が入っており、この銘文が本当に天智5年の銘とすると、天皇号成立時期の定説である天武・持統朝に先行するという問題もからんでいます。ここには歴史学・美術史学・文献学・考古学それぞれの乖離という問題が顕在化している点で大変興味深いことです。このことに関して先年新しい説と論考が出されたので紹介したく思います。

…が余りに長くなりましたので論文の紹介はまた次回。(軽く扱うつもりだったのにえらい大変な問題でした…)

後編http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110409/1302354728