豫州松山記

 この春の佳き時節に伊予は松山に旅行に行ってまいりました。

    春や昔 十五万石の 城下哉  子規

 この句の通り伊予松山久松松平家、十五万石の城下町です。


早朝の湯築城址から松山城を望む
 
 湯築城はかつて伊予を治めた河野氏の本拠だった所です。その治世は平安末期から安土桃山時代まで約500年に及びます。その家紋「折敷に三文字」は鎌倉開府にあたって上から三番目の席次であったという伝説にちなんでいるほどで、西日本屈指の名族といえます。しかし、その名族も戦国時代には長宗我部氏に圧迫され、最終的には絶えてしまいます。
 河野氏の栄枯盛衰をかみしめながら、早朝の展望台のベンチで1時間ほど眠った私でした。


湯築城址の桜は河野氏の栄えの如く咲き誇っていました


萬翠荘

 萬翠荘は旧藩主である久松定謨(さだこと)伯爵が大正十一年(1922)に建てた洋館の別邸です。かつてフランスに留学した定謨伯は、当時38歳の建築家、木子(きご)七郎を欧州に派遣し別邸を設計建築させました。木子はその期待にこたえてこの見事な洋館を完成させたのです。
 この定謨伯、たいへん郷土を愛したお方で、有望な旧藩士の子弟に奨学金を出す「常盤会」という給付組織をつくり人材育成に努められました。その結果、言わずと知れた秋山好古・真之兄弟、正岡子規をはじめ加藤恒忠(子規の叔父・外交官のち松山市長)・佃一予(官僚・銀行家)・山路一善(海軍中将)・白川義則(陸軍大将)ら近代日本史に燦然と名前を残す人材を輩出したのです。
 定謨伯はこの萬翠荘を建てたときも国有物となっていた松山城を3万円で払い下げてもらい、さらに5万円の維持費を添えて松山市に寄付したそうです。大正末期から昭和初期、華族の不義密通といった不祥事や赤化がセンセーショナルに報じられ(特に維新の功臣の子孫・勲功華族に多い)、いわゆる「昭和維新」運動の原因の一つになったことを考えると、このような旧藩主の華族様は素晴らしいことです。跡を継がれた久松定武氏が戦後20年にわたって愛媛県知事を務めたことも納得できます。


萬翠荘と桜花


松山城はまさに花盛り


松山城天守より瀬戸内海に飛ぶ白帆がきれいに見えます

 今回の旅行は本当に天気に恵まれて幸運でした。五年ぶり三度目の松山でしたが、御時世か『坂の上の雲』をえらく押してます。以前はほとんどわからなかったんですが…とにかく松山は文化の薫る街です。