涅槃講式 初段 その四

「涅槃講式 初段 その一」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110330/1301491947
「涅槃講式 初段 そのニ」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110401/1301660527
「涅槃講式 初段 その三」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110403/1301806825

≪ 原 文 ≫

 青蓮の眼(まなこ)閉じて、永く慈悲の微咲(みしょう)を止(や)め、丹菓の唇黙(もだ)して、終に大梵の哀声を絶ちき。
 この時に、漏尽(ろじん)の羅漢は、梵行已立(ぼんぎょういりう)の歓喜を忘れ、登地の菩薩は、諸法無生の観智を捨つ。密迹力士は、金剛杵を捨てて、天に叫び、大梵天王は、羅網幢(らもうどう)を投げて、地に倒(たお)る。八十恒沙の羅刹王(らせっとう)は、舌を申(の)べて悶絶し、廿恒沙の獅子王は、身を投げて吠え叫ぶ。鳧鴈鴛鴦の類も、皆悲を懐き、毒蛇悪蝎の族(やから)も、悉く愁を含みき。狻虎猪鹿(さんこちょろく)蹄を交えて、噉害を忘れ、獼猴獒犬(みごごうけん)項(うなじ)を舐(ねぶ)って、悲心を訪(とぶろ)う。

 跋提河(ばっだいが)の浪の音、別離の歎(なげき)を催し、娑羅林の風の声も、哀恋の思を勧む。凡そ大地(だいじ)震動し、大山(だいせん)崩裂す。海水沸涌(ひゆう)し、江河(こうが)涸竭す。卉木叢林(きもくそうりん)悉く憂悲の声を出(いだ)し、山河大地(せんがだいじ)皆痛悩の語(ことば)を唱う。
 
 経に衆会(しゅえ)悲感の相を説いて云く。 或は仏に随って滅する者あり。或は失心の者あり。或は身心戦(わなな)く者あり。或は互相(たがい)に手を執って、哽咽(こうえっ)して涙を流す者あり。或は常に胸を搥って、大きに叫ぶ者あり。或は手を挙げて、頭(こうべ)を拍って、自ら髪を抜く者あり。或は遍体に血現れて、地に流れ灑(そそ)く者あり。かくの如くの異類の殊音、一切大衆の哀声、普く一切世界に震う。
 
 良(まこと)におもんみれば、八苦火宅の中にも、忍び難きは別離の焔(ほのお)なり。三千の法王去りたまいぬ。熱悩何物をか喩(たとえ)とせんや。
 仍って悲涙を拭い、愁歎を収めて、伽陀を唱え、礼拝を行ずべし。

(伽陀) 我如初生之嬰児 
     失母不久必当死
     世尊如何見放捨  
     独出三界受安楽

   南無大恩教主釈迦牟尼如来生々世々値遇頂戴

≪ 現 代 語 訳 ≫
 釈尊の青蓮華のような瞳はもう二度と開くことなく、衆生のことを思う慈悲の微笑みはもう見られず、赤い果実のような唇は閉じて、再び梵天のような清らかなお声も聞けないのです。
 釈尊涅槃の時、あらゆる煩悩を断じ尽くした羅漢といえども清浄な修行をおさめた喜びを忘れて悲しみ、菩薩の最初の段階である「歓喜地」の悟りの境地に至った菩薩といえども全ての事象は空であるという悟りを忘れて涙を流しました。釈尊を警護する夜叉神たちは金剛杵を捨てて空に向かって泣き叫び、梵天は殊玉の幢を投げ捨てて地面に伏してしまいました。八十恒沙もの羅刹たちを率いる王、可毘羅刹は舌をのばして悶絶し、二十恒沙もの獅子を統べる王、師子吼王は地面に体を叩きつけて吠え叫びました。カリ・オシドリといった鳥類も皆悲しみ、毒蛇・サソリさえも愁いに沈んでいます。獅子・トラ・イノシシ・シカも獲物を喰らうことも忘れて、大サルや猛犬も首を垂れて悲しんでいます。
 
 跋提河のいざよう波の音は釈尊との別れの歎きを誘い、サラの林の風の声も哀しみ恋しさを募らせます。ああ!大地は震え、山は裂け、海水は沸き上がり、大河は涸れ果ててしまいました。山林草木に至るまで悲しみの声をあげて、山河大地さえも釈尊入滅の苦しみを叫ばんばかりです。

 『涅槃経』には集まった五十二類の悲しみが次のように説かれています。ある者は釈尊入滅と共に殉じて命を絶ち、ある者は失神し、ある者は余りの衝撃に痙攣をおこしました。ある者はお互いに手を取り合って涙にむせび泣いています。ある者は自ら胸をかきむしって大声で泣き叫びました。またある者は釈尊入滅の悲しみのあまりついに発狂し、頭を叩いて自分の髪の毛を抜き、ある者は体中血まみれになり地面を血に染めました。このような五十二類の悶えと大衆の悲しみの声は三千世界を震動させるほどでした。
 
 本当に考えてみれば、あらゆる苦しみに満ちたこの世界において、人間の避けられない八苦の中でも、最も忍び難いのは「別れ」の苦しみでしょう。この三千世界の法王、大恩教主釈尊がこの世から去ってしまいました。この激しい苦しみを何にたとえられましょうか。
 さあ、悲しみの涙をぬぐい、ため息を止めて、伽陀を唱えてみんなで釈尊を礼拝しようではないですか!

(伽陀)  釈尊!私たちは生まれたばかりの子供のようなものです
      母親であるあなた様を失った今、すぐにでも死んでしまうでしょう
      釈尊!どうして私たちを見捨てて
      一人この苦しい世の中を出て安楽の世界に行かれるのですか?

   生まれ変わり死に変わりして幾千万世を経ても大恩教主釈尊を礼し帰依致します。


≪ 語 句 解 釈 ≫
【丹菓】 赤い果実のような唇
【大梵】(だいぼん) 梵天のこと 梵天の良き声から仏の清らかな声をあらわす
【漏尽】(ろじん) あらゆる煩悩を断じ尽くして阿羅漢の位に達した者
【羅漢】 阿羅漢の略 小乗仏教の修行の極意に達した者・聖者
【梵行】 欲望を断ずる行
【登地】 菩薩の階梯の十地の初地にのぼったこと 歓喜地の位に入った菩薩
【無生】 空
【観智】 心・ことわりを観ずる智・修行の智慧
【密迹力士】(みっしゃくりきじ) 金剛の武器を持って仏を警護する夜叉神の総称
【金剛杵】(こんごうしょ) 古代インドの武器 堅固であらゆるものを打ち砕く
【羅網】(らもう) 珠玉をつらねた網
【狻】(さん) シシ
【噉】(だん) 喰らうこと
【獒犬】(ごうけん) 大犬・猛犬
【涸竭】(こかつ) 川や池の水が涸れ果てること
【卉木】(きもく) 草木
【殊音】 死にそうな音
【八苦】 生苦・老苦・病苦・死苦・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦
【三千】 三千大千世界の略 古代インド人の世界観による全宇宙
【法王】 法門の王の意 仏を讃えていう
【熱悩】 心作用の一つ 非常に深い悩み 激しい苦しみ
【愁歎】 嘆き悲しみ