松田真平氏「野中寺弥勒菩薩像の銘文読解と制作年についての考証」 後編

 前篇では研究史を扱いましたが、今回は本題の松田氏の論文です。
 前篇http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110402/1301747017

松田真平氏「野中寺弥勒菩薩像の銘文読解と制作年についての考証」(『佛教藝術』313号 2010年11月)

佛教藝術 313号

佛教藝術 313号

章立て
はじめに
一 全文の読み下し
二 第七字は「旧」や「朔」ではなく「洎」
三 第十八字は繰り返し記号の「〃」(々の略記)
四 第七字の「洎」の字形の成立事情
五 第十四字の「栢」の読み方をめぐって
六 羽曳野丘陵、野中寺付近の実際の樹相
七 「栢字」は「栢舟の操」からの引用で、野中寺のこと
八 第四十一字と第四十二字の「友共」という読みについて
九 船氏と大和川(まとめに代えて)

 松田氏は(株)ICD現代デザイン研究所文化財研究室、コンピュータ・グラフィック・デザイナー、元東大阪大学短期大学部非常勤講師で、CG技術を用いた文化財の復元をご専門にされている方のようです。
 
 論旨は銘文は666年刻、制作年は661年という従来の説を支持しながらも、麻木氏とは違う読み方を提示されています。冒頭の「丙寅年四月■八日癸卯開記」の■を「洎」(いたる)と読み、従来「知識之等」と読まれていた「之」を「〃」と釈します。
 さらに、野中寺周辺の樹林を調査し「栢」と考えられるヒノキ科の樹木やカヤが群生していたとは考えられず、「栢寺」という表現は未亡人の貞操をあらわす「栢舟の操」からきているとし、まとめとして水運に関係する渡来人の船氏の未亡人が野中寺を護持していたのではないかと指摘し、改めて野中寺弥勒菩薩像の666年刻説を支持されています。

 浅学を恥じずに申しますと、まず気になったところとしては、論文の形式が特徴的であるということです。私も東洋史学・美術史学の論文は読んできましたが、章立てを見て頂ければわかるとおり、章題で自説を主張されるというこの形式は初めてみたように思います。行数の短い章もありますし、若干違和感を覚えました。
 脚注で暦について『Wikipedia』を参照し、サイトから引用されていますが、これはいかがなものでしょうか。唐朝の暦に関しては平岡武夫氏の『唐代の暦』という労作がありますし、暦に関しては先行研究があるように思うのですが。ここで『Wikipedia』の正確性を論ずるつもりはありませんが、少なくとも研究論文に用いるのは後進の為にも適切でないと私は考えます。
 ■を「洎」(いたる)と読まれたのは新説です。『大漢和辞典』を参照すると、「①そそぐ。水を差す。②うるほふす。浸す。③及ぶ。及び。④肉の汁。(巻六・1086ページ)とあり、「いたる」という訓は出てきません。但し、③に「曁に通ず」とあり、「」の最後に「いたる」という訓があります(巻五・934ページ)金石文の用例も出されていますが、私はやはり「朔」なり「旧」なりの方が自然に感じます。
 野中寺周辺の樹木を調査されたことや、「栢」(これは美術史に於いて「栢木」を日本では何の木に充てるかという論争が長く続けられたいわくつきの言葉です)から船氏を野中寺護持の氏族とされたことは大変興味深く読ませていただきました。また、最後に述べられているように、この銘文の解釈ができないから、自説に合わないから偽刻だというような研究者の姿勢への疑問は全く同意です。
 
 私も野中寺を実際に訪れたことがあります。平成17年12月、野中寺で弥勒菩薩像を拝ませていただいた時、同行していた美術史を研究していた先輩が「この仏さまの銘文は大正期の偽刻などと言われているが、『河内国名所図会』の「弥勒」という記述は、江戸時代半迦思惟像がほぼすべて如意輪観音と称されていたことを考えれば重い。少なくとも近代の偽刻などということはないだろう」と解説してくれました。すると、そこにいらっしゃった御住職、野口真戒僧正が大変喜ばれ、「近年大正期の偽刻という学者が多くて困る。私達はそんなことは断じてなかったと言える」ということをおっしゃられました。

 そんな中、松田氏が冒頭に述べられている通り、大山誠一氏(聖徳太子非実在説を主張している人)が著書『聖徳太子と日本人』の中で「最近、先に野中寺の弥勒像を偽物と見破った東野治之氏が」と大変強く無礼な書き方をしておりびっくりしました。この本を読んだ方で一連の論争を知らない方はまず「野中寺の弥勒さんは偽モノか」と思うでしょう。問題の所在は銘文と仏像は7世紀のどのあたりの作かということにあり、且つこのように諸説挙げられているにも関わらず、弥勒像自体が偽物のような印象を与えます。如何に書き物とはいえ、このようなことは許されないと思いますし、仏さまを護持してきた先徳・郷土の方々に余りにも失礼です。私はこのお寺と御住職、仏さまを存じている者として怒りすら覚えました。

 以前も述べたとおり、この銘文には「天皇」という言葉があるために兎角研究者の立場や主張によって論ぜられます。また文献学・歴史学・美術史学、そして信仰者・宗教者それぞれの立場から様々な説があります。
 東洋史には(確か清朝考証学だったと思いますが)「孤例は採らず」(若しくは「孤例は証ならず」)という言葉があります。それぞれに一つしかない例、一つしかない説を振りかざすのではなく、どうか史学・美術史学に科学調査のような視点も加えたうえで総合して論じて欲しいのです。

 またこの問題のことではありませんが、余りに極端な論や著しく作為的に解釈した論、いわゆるトンデモ説などはいちいちにプロの歴史学者は否定して頂きたいと考えます。学者は反論するとその説を一定に評価したことになると考えているのか、無視が最大の反論というような立場の方が多いですが、とんでもない嘘でも信じる人はいますし、時がたつにつれて正当化されることもあります。『東日流外三郡誌』事件のことを我々歴史愛好者も歴史学者も忘れてはならないと感じるのです。

 …話がそれましたが野中寺の弥勒像をめぐる諸説には今後も注目していきたいと考えています。