涅槃講式 第三段 その一

≪ 原 文 ≫

 第三に、涅槃の因縁を挙ぐといっぱ、夫如来は般若の翅(つばさ)を扇(あお)いで、生死(しょうじ)の雲を払(はろ)うと雖も、大悲の鏁(くさり)に縈(まつわ)れて、未だ衆生の手を免れたまわず。火宅に還って嬉戯(きけ)の稚子(ちし)を誘(こしら)え、苦海に浮(うか)んで狂酔の溺人を救う。広大の慈悲、衆生界を尽し、無際の大願、利他に倦(ものう)まず。

 若し我等が過(とが)を悪(にく)んで、永く無余の戸(とぼそ)を閉じば、如我等無畏(にょがとうむい)の誓も由なし。今者已満足(こんじゃいまんぞく)の悦(よろこび)も、何んかあらんや。当に知るべし。歓喜(かんぎ)の因を待ちて出現を示し、憍恣(きょうし)の心を誡(いまし)めて涅槃に入るなり。

 華厳に云く。衆生をして歓喜せしめんと欲うが故に世に出現す。衆生をして憂悲感慕(うひかんぼ)せしめんと欲うが故に涅槃を示現すと。法華に云く。凡夫の顛倒(てんどう)せるが為に、実に在れども而も滅すと言う。常に我を見るを以ての故に、而も憍恣の心を生ぜん。

≪ 現 代 語 訳 ≫
 第三に涅槃の理由を明らかにしましょう。そもそも仏さまである釈尊は、「般若の智慧」という翼を扇ぐことによって世の中を覆う雲のような生死の苦しみを払って、もう生死のことなど超越しておられます。しかし、「衆生のことを思って下さる慈悲の心」というクサリに縛られているからこそ、この世で苦しんでいる私達のことを見捨てないでいて下さるのです。この猛火に襲われる家にあって楽しげに遊んでいる子供のような私達を、白牛の車で誘うが如き大乗の教えで救って下さいます。また、この世という苦しみの海に漂い溺れ苦しむ私達衆生を救って下さいます。この釈尊の広大無辺の慈悲はこの世界を覆い尽くし、衆生を救う!という果てのない御誓いは衆生救済の利他の行を怠りません。

 もし釈尊が私達の悪行に怒って永久に無余涅槃の扉を閉じてしまったら、『法華経』にあるような「私と同じ悟りの境地にみんなを導こう!」という御誓いも甲斐のないものとなりますし、同じく『法華経』にある「今や衆生を導くという私の願いは満たされた!」という悦びの言葉も空しいものとなるでしょう。本当に有難いことだと私達は思わねばなりません!釈尊は人間としてこの世にお出ましになり、仏の世界があることを示して私達衆生を喜ばせ、衆生のおごりの心を戒めるために涅槃に入られたのです。

 「釈尊衆生を喜ばせようとしてこの世にお出ましになり、衆生が悲しみ仏を慕う心を募らせるように涅槃の様子を目に見せるのだ…」と『華厳経』寶王如来性起品にあります。また『法華経如来寿量品に「愚かな私達が誤った考えをもつから、本当は仏は常にいますのに、入滅したように思うのです。しかしいつも仏の姿を見せてしまうと、いつまでも変わらないものがあると思っておごり自分勝手な心が生まれてしまうのです」と戒めています。

≪ 語 句 解 釈 ≫
【因縁】 原因・理由・わけ
【般若】 悟りを得る真実の智慧・悟りの智慧
【大悲】 仏の広大無辺の慈悲
【火宅】 煩悩と苦しみに満ちたこの世を火に焼けた家に例える 『法華経』譬諭品の三車火宅の教えを踏まえた表現
【嬉戯】(きけ) 遊び戯れる
【稚子】(ちし) 幼い子供・幼児
【大願】 大いなる願い・誓願・一切衆生を救済しようとする弥陀の本願力
【利他】 他者を利益すること・衆生を救うこと
【倦む】(ものうむ) 飽きて嫌になること・億劫
【無余】 無余涅槃の略 死後に生まれ変わらないこと・完全となって残された残余がないこと・煩悩も肉体も完全に滅し尽くした状態
【如我等無畏】(にょがとうむい) 『法華経』方便品第二の文 釈尊の目的は自分と等しい境地に衆生を導くことにあるということ
【今者已満足】(こんじゃいまんぞく) 同じく『法華経』方便品にある文 今や衆生救済という目的が達せられたということ
【憍恣】(きょうし) おごってわがままなこと
【憂悲】(うひ) 憂いと悲しみ
衆生をして歓喜せしめんと欲うが故に世に出現す…】『華厳経』寶王如来性起品からの引用
【凡夫の顛倒せるが為に…】『法華経如来寿量品からの引用
【凡夫】 愚かな人・一般の人たち
【顛倒】(てんどう) 正しい見方の反対であること・真理にたがうこと・誤った考え

「涅槃講式 第三段 そのニ」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110530/1306763573