三車火宅の譬え

 四座講式には「火宅」という言葉がよく登場します。これは『法華経』の中でも一、二を争う有名な逸話「三車火宅の喩え」に由来します。私『法華経』には暗いもので難しい事はわかりませんが、この喩えは大好きです。


【火宅】(かたく) 
 煩悩と苦しみに満ちたこの世を、火に焼けている家に喩えていう。炎に包まれた恐ろしい世界。迷いの世界。法華七喩の一つ。「三界無安猶如火宅」(『法華経』)という句にもとづく。人びとがこの三界のうちに生きていて種々の迷いや煩悩に苦しめられること。また苦しんでいながら、苦しんでいるとさえ自覚しないでいるのを、焼けつつある家屋に喩え、また迷える人びとを、家の中にいて迫って来る運命も知らず喜戯する子供に喩えるのである。
 (中村元『仏教語大辞典 上巻』 東京書籍 1975年 P145引用)


【三車】(さんしゃ) 
 『法華経』譬喩品にでるたとえ。火がついて燃えている火災の家(火宅)の中で知らずに遊んでいる子供に、羊車・鹿車・牛車を与えるからといって屋外に出させ、大きな白い牛車に乗せて連れ去ったという、その三つの車を、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗にたとえ、仏教には大乗・小乗があるが、結局は同一のさとりへ導く手段であるということにたとえる。火宅とは、迷いの人間界であり、子供とは、二乗ないし三乗の人びとであり、羊車を声聞乗、鹿車を縁覚乗、牛車を菩薩乗にたとえて三車を三乗の教えとしている。そして、子供を火宅からのがれさせて、門外に用意した同一の大白牛車(だいびゃくごしゃ)をそれぞれに与えたというのは、方便の三乗を捨てて真実の一仏乗に帰入させようとする仏の大悲を示すものである。中国の『法華経』研究者の間では、方便の牛車と第四の大白牛車を同一のものと解する三車家(三論宗法相宗)と、牛車と大白牛車は別のものとする四車家(天台宗華厳宗)がある。すなわち菩薩乗を仏乗と同一に見るのが三論・法相宗の三車家、菩薩乗と別に大白牛車の仏乗を立てるのが天台・華厳宗の四車家とよばれ、互いに論争が行われた。聖徳太子は法雲の注釈によっているから、四車家の流れを汲む。
 (中村元『仏教語大辞典 上巻』 東京書籍 1975年 P466引用)

 我々人間はこの喩えにあるように、実は家が燃えているのに気付かずに屋敷の中で喜び楽しんでいる…これは仏という悟った立場から見るので見えることで、現にこの世を生きる我々は気付かないのです。本当にうまく例えたものです。
 
 『火宅の人』という檀一雄氏の小説が昭和50年代にテレビドラマ化されたり映画化されたりしたことで、「火宅」というと妻妾いりまじるドロドロの世界を想像してしまう方も少なからずいるようですが、『法華経』の本義から言えば人間みな「火宅の人」でしょう。

 有り難い事に、仏の大慈大悲によって「ほーら、君たちの大好きな羊さんの車・鹿さんの車・牛さんの車、なんでもあるから屋敷から出なさい!」と言われているのです。ところが、この屋敷を出る?・出ない?は我々自身の意思であり、いかな仏陀といえども不可知なところなのでしょう。多分に深いたとえです。これを突き詰めていくと日本仏教各宗の中でも「解脱論」(悟りの方法を提示 天台・真言)と「救済論」(この苦しい現世からの救済を説く 浄土・浄土真宗)の違い、明恵上人と法然上人の激しい論争まで考えが及びます。

 明恵上人は語句解釈でも挙げている通り『華厳経』をよく引用されます。それに加えて『法華経』の世界観も出てきます。羅漢講式・遺跡講式のはじめは共に「敬って大恩教主釈迦牟尼世尊如来) 華厳法花八万聖教…」で始まり、『華厳経』・『法華経』への帰依が説かれています。これからはできるだけ『華厳経』のことも紹介していくように考えています。

「四座講式本文」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/searchdiary?word=%2A%5B%BB%CD%BA%C2%B9%D6%BC%B0%CB%DC%CA%B8%5D