涅槃講式 第三段 その二

「涅槃講式 第三段 その一」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110529/1306674252

≪ 原 文 ≫

 鞞瑟(びしゅ)長者不滅度際の法門の体(たい)を説いて云く。普く十方一切世界去来今(きょらいこん)の仏を見るに、涅槃したもう者なし。衆生を化する方便の滅度をば除くと。 

 香象大師釈して云く。他心を変異して出没(しゅっもつ)を見せしむ。それ実に常身は出(しゅつ)なく滅なしと。乃至顕現甚深 出没無碍 広大仏事 未曽失時(みぞうしっじ)等の涅槃の諸義、この中に広く説くべし。
 然れば則ち如来の涅槃は、衆生を捨つるにあらず、唯(ただ)難化(なんけ)の過を懲し、専ら哀悲の思を勧むるなり。今但聞其名(こんたんもんごみょう)、惜哉我不見(しゃくざいがふけん)の宝積(ほうしゃく)の芳契、咸皆懐恋慕(げんかいえれんぼ)、而生渇仰心(にしょうかつごうしん)の法花の遺訓、見聞の処に、悲喜甚だ深し。

 快い哉。既に教網の一目に罹れり。盍(なん)そ苦海の波浪を出でざらん。何(いか)に況(いおう)や出現涅槃は水波の如し。総別十門互に全収せり。恋慕渇仰の風、跋提河(ばっだいが)の岸に涼しく、憍恣厭怠の雲、娑羅林の空に晴れぬ。涅槃山(さん)の峰に出現の月を待ち、生死海(しょうじかい)の底に菩提の珠(たんま)を得んこと、何そそれ難しとせんや。

 仍って恋慕渇仰の思を凝らして、伽陀を唱え礼拝を行ずべし。

 (伽陀) 為凡夫顛倒  
       実在而言滅
       以常見我故
       而生憍恣心
 
  南無大恩教主釈迦牟尼如来生々世々値遇頂戴

≪ 現 代 語 訳 ≫
 また『華厳経』には善財童子が鞞瑟長者を訪ねた際、長者が不滅度際菩薩の教えについて「全ての十方世界、過去・現在・未来の三世の仏を見ても釈尊のように涅槃に入られた仏はいらっしゃらない。ただ衆生を導く方便として入滅した場合を除いてはだ」と説いたとあります。

 香象大師法蔵三蔵が『華厳経探玄記』で涅槃のことを解釈して「釈尊は人間の肉体を借りてこの世にお出ましになり、そして没することを衆生に見せたのだ。そもそも常にこの世にいます仏の御体は生まれることも滅することもないのだ」と著しています。或いはその他の涅槃の意味もこの中に広く説いています。
 そうするとつまり、釈尊が涅槃に入られたことは、決して私達衆生を救うことをあきらめ見捨てたわけではないのです。仏の教えをわかろうとしない人々の過ちを懲らしめるために、自ら涅槃に入られることで別離の悲しみを私達に教えて下さったのです。
 「今からはただその御名前を聞くだけで、惜しいかな!私たちはもう釈尊にお会いできないのです!」という『大宝積経』にある釈尊との芳しい契り!「全ての人みな悉く釈尊への恋い慕う心を抱いて、釈尊を仰ぎ慕う気持ちになるのだ!」という『法華経』の御教え!釈尊を見たり、またその教えを聞いたりした者には本当に悲しみも喜びもとても深いものです。

 ああ、なんと快いことでしょう!釈尊を恋い慕う私達はさながら苦しみの海を行く魚のようなものですが、もう釈尊の投げられた仏教という投網の目にかかっているのです。どうしてこの苦しみの大海の大波から逃れられないことがありましょうか。何といっても釈尊がこの世にお出ましになり、また涅槃に入られたのも、この苦しみの海に波が立ちそして波が収まって海に戻るようなものです。釈尊のお説きになった教えは全てこの中に収まるのです。
 釈尊を恋い慕いその徳を仰ぐ風は跋提河の岸に一陣の清風のように涼しく吹き、私達の心にかかるおごり怠りの雲は消え失せ、サラ林の空は晴れ渡っています。釈尊の教えに触れた今や、涅槃の山に現れる月を待って、この無限に続く生死の苦海の底に「悟り」という宝を得ることがどうして難しいでしょうか。

 さあ、釈尊を恋い慕い、仰ぐ思いを一心に念じて伽陀を唱えて礼拝しようではありませんか!

 (伽陀) 愚かな私達が誤った考えを持つから、
      釈尊は今ここにおられるのに入滅してしまったように言うのです!
      とはいえ、いつも釈尊の御姿を見せてしまうと、
      いつまでも変わらないものがあると考え、おごり自分勝手な心が生まれるのです!

        生まれ変わり死に変わりして幾千万世を経ても大恩教主釈尊を礼し帰依致します。

≪ 語 句 解 釈 ≫
【鞞瑟長者】(びしゅ) 『華厳経』入法界品に登場する長者。安住長者ともいう(梵名:鞞瑟胝羅)善財童子が23番目に訪ねた居士。首婆波羅城に住む。過去に現れた仏に仕え、栴檀仏塔を供養し、法を分別し、衆生に顕現し、一切諸備を見知するという。善財童子に不滅度際菩薩の法門を示し、仏は過去・現在・未来の三世に、あらゆる姿で世の中を教え導き、しかも永遠に変わることなく在すことを説いた。
【普く十方一切世界去来今の仏を見るに、涅槃したもう者なし…】『華厳経』巻五十 入法界品 「普見十方一切世界 去來今佛無涅槃者 除化衆生方便滅度」からの引用
【法門】 真理の教え・仏の教え
【香象大師】 華厳宗第三祖法蔵(643−712)の称号。唐代に則天武后の庇護を受け『華厳経』を訳し、華厳教学を大成した。
【他心を変異して出没を見せしむ…】 法蔵著『華厳経探玄記』四巻第十九 盡第六地知識にある「初見佛功徳身常除化衆生者。但変異他心令見出歿。其実常身無出無滅。」からの引用。
【他心】 他人の心
【常身】 常住の仏身
【乃至顕現甚深…】 文脈上法蔵著『華厳経探玄記』における涅槃の意味の解釈であると考えられるが今のところ該当部分はわからない。
【今但聞其名 惜哉我不見】 菩提流支訳『大宝積経』巻第二 三律儀会第一之二の偈文からの引用
【咸皆懐恋慕 而生渇仰心】 『法華経如来寿量品第十六の偈文からの引用
【渇仰】 その人の徳を仰ぎ慕うことを渇している者が水を切望することに例えて言う
【遺訓】 遺された教え・後人に残す教訓
【教網】 衆生を魚に、仏の教えを網に喩えて仏の教化を意味する
【総別】 一般と特別
【十門】 十種の方面
【跋提河】(ばっだいが) ガンジス川の支流
【生死海】(しょうじかい) 海の如く無限に続く生死・苦の海

涅槃講式 第三段 その一

≪ 原 文 ≫

 第三に、涅槃の因縁を挙ぐといっぱ、夫如来は般若の翅(つばさ)を扇(あお)いで、生死(しょうじ)の雲を払(はろ)うと雖も、大悲の鏁(くさり)に縈(まつわ)れて、未だ衆生の手を免れたまわず。火宅に還って嬉戯(きけ)の稚子(ちし)を誘(こしら)え、苦海に浮(うか)んで狂酔の溺人を救う。広大の慈悲、衆生界を尽し、無際の大願、利他に倦(ものう)まず。

 若し我等が過(とが)を悪(にく)んで、永く無余の戸(とぼそ)を閉じば、如我等無畏(にょがとうむい)の誓も由なし。今者已満足(こんじゃいまんぞく)の悦(よろこび)も、何んかあらんや。当に知るべし。歓喜(かんぎ)の因を待ちて出現を示し、憍恣(きょうし)の心を誡(いまし)めて涅槃に入るなり。

 華厳に云く。衆生をして歓喜せしめんと欲うが故に世に出現す。衆生をして憂悲感慕(うひかんぼ)せしめんと欲うが故に涅槃を示現すと。法華に云く。凡夫の顛倒(てんどう)せるが為に、実に在れども而も滅すと言う。常に我を見るを以ての故に、而も憍恣の心を生ぜん。

≪ 現 代 語 訳 ≫
 第三に涅槃の理由を明らかにしましょう。そもそも仏さまである釈尊は、「般若の智慧」という翼を扇ぐことによって世の中を覆う雲のような生死の苦しみを払って、もう生死のことなど超越しておられます。しかし、「衆生のことを思って下さる慈悲の心」というクサリに縛られているからこそ、この世で苦しんでいる私達のことを見捨てないでいて下さるのです。この猛火に襲われる家にあって楽しげに遊んでいる子供のような私達を、白牛の車で誘うが如き大乗の教えで救って下さいます。また、この世という苦しみの海に漂い溺れ苦しむ私達衆生を救って下さいます。この釈尊の広大無辺の慈悲はこの世界を覆い尽くし、衆生を救う!という果てのない御誓いは衆生救済の利他の行を怠りません。

 もし釈尊が私達の悪行に怒って永久に無余涅槃の扉を閉じてしまったら、『法華経』にあるような「私と同じ悟りの境地にみんなを導こう!」という御誓いも甲斐のないものとなりますし、同じく『法華経』にある「今や衆生を導くという私の願いは満たされた!」という悦びの言葉も空しいものとなるでしょう。本当に有難いことだと私達は思わねばなりません!釈尊は人間としてこの世にお出ましになり、仏の世界があることを示して私達衆生を喜ばせ、衆生のおごりの心を戒めるために涅槃に入られたのです。

 「釈尊衆生を喜ばせようとしてこの世にお出ましになり、衆生が悲しみ仏を慕う心を募らせるように涅槃の様子を目に見せるのだ…」と『華厳経』寶王如来性起品にあります。また『法華経如来寿量品に「愚かな私達が誤った考えをもつから、本当は仏は常にいますのに、入滅したように思うのです。しかしいつも仏の姿を見せてしまうと、いつまでも変わらないものがあると思っておごり自分勝手な心が生まれてしまうのです」と戒めています。

≪ 語 句 解 釈 ≫
【因縁】 原因・理由・わけ
【般若】 悟りを得る真実の智慧・悟りの智慧
【大悲】 仏の広大無辺の慈悲
【火宅】 煩悩と苦しみに満ちたこの世を火に焼けた家に例える 『法華経』譬諭品の三車火宅の教えを踏まえた表現
【嬉戯】(きけ) 遊び戯れる
【稚子】(ちし) 幼い子供・幼児
【大願】 大いなる願い・誓願・一切衆生を救済しようとする弥陀の本願力
【利他】 他者を利益すること・衆生を救うこと
【倦む】(ものうむ) 飽きて嫌になること・億劫
【無余】 無余涅槃の略 死後に生まれ変わらないこと・完全となって残された残余がないこと・煩悩も肉体も完全に滅し尽くした状態
【如我等無畏】(にょがとうむい) 『法華経』方便品第二の文 釈尊の目的は自分と等しい境地に衆生を導くことにあるということ
【今者已満足】(こんじゃいまんぞく) 同じく『法華経』方便品にある文 今や衆生救済という目的が達せられたということ
【憍恣】(きょうし) おごってわがままなこと
【憂悲】(うひ) 憂いと悲しみ
衆生をして歓喜せしめんと欲うが故に世に出現す…】『華厳経』寶王如来性起品からの引用
【凡夫の顛倒せるが為に…】『法華経如来寿量品からの引用
【凡夫】 愚かな人・一般の人たち
【顛倒】(てんどう) 正しい見方の反対であること・真理にたがうこと・誤った考え

「涅槃講式 第三段 そのニ」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110530/1306763573

京師賀茂祭之事 後篇

「京師賀茂祭之事 前篇」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110516

 賀茂祭は京都の大学生にとっては印象深いお祭りです。…行列のバイトがあるからです。私自身はしたことがありませんが、友達は何人かやっておりました。
 ですが、主役たる「斎王代」(古来の賀茂斎王の役)は京都の名家の御嬢さんから選ばれます。腰輿(およよ)という輿にのってたくさんの随身と共に行列します。映画「鴨川ホルモー」で主人公がサークルに誘われる最初の場面として葵祭のバイトの後が選ばれているのは、京都に学生時代を過ごしたものとして大変納得できます。

 さてこの賀茂祭、いつ頃からこの形式で行われてきたのか。三宅氏の論考を引用します。

(1)『類聚国史』五、弘仁十年(819)三月一六日条に賀茂祭を「中祀に准ずる」とあること
(2)『内裏儀式』に賀茂祭の規定(「賀茂祭日警固式」)があること
(3)『類聚国史』一〇七、弘仁九年(818)正月二一日条に「初めて斎院司を置く」とあること
(4)『本朝月令』所引の「或記」に延暦一二年(793)の出来事として「北野山中」に行幸した桓武天皇が「大火に遭ひ給ふ。祈り申す。始めて鴨上下両神の大祭の事を奉ず。供奉の諸司を率ゐ、斎内親王を奉る」とあること(『年中行事秘抄』『年中行事抄』にもほぼ同文がみえる)
(5)『一代要略』『皇年代略記』に大同元年(806)開始説がみえること
  (三宅和朗 『古代の神社と祭り』 2001年 吉川弘文館 114・115ページ引用)

 三宅氏はこれらの史料から賀茂祭は9世紀前半には確実に実施されており、8世紀末に開始を溯ることができるのではないかとされています。なるほど私も国家的祭祀の始まりである弘仁十年(819)を始まりとして差し支えないと考えます。
 その後、賀茂祭室町時代の文亀二年(1502)を最後に中断し、江戸時代に入って元禄七年(1694)に再興され、明治の初めに現在の五月十五日を祭日とし現在に至っています。

 賀茂祭の目的は前篇の松尾大社と両賀茂社のところで記したとおり、京の守護神である両賀茂社の神に、王権たる天皇が王城鎮護を祈る祭りと位置づけることができるでしょう。

 賀茂祭は五月十五日の一ヶ月以上前から続いていますが、一般的には五月十五日に行われる路頭の儀・行列・社頭の儀を賀茂祭葵祭)としています。
 路頭の儀は内裏から下鴨神社、続いて上賀茂神社へと勅使一行が進む行列です。斎王がいたころは、斎院が七野社あたりにあって、勅使は一条大宮で待ち、斎王と合流して進んでいたようです。さてこの賀茂斎院は現在櫟谷七野神社(いちたにななのじんじゃ)と呼ばれる小さな神社のあたりにあったとされています。現在の地理でいえば大宮通廬山寺道を上がったあたり、「西陣」と呼ばれる地域です。私、この辺りは何回も通ったことがあるのに全く気付きませんでした。次回京都に行くときに訪ねたいと思います。

 さて、勅使と斎王が進むこの行列が今一般的に「葵祭」として有名な行列ですが、観衆の目を引くのは今も昔も同じで、昔から身分の上下を問わず桟敷をつくって見物していたそうです。『源氏物語』の六条御息所の怨念の契機となる「車争い」は、この行列を見るために起きました。
 
 社頭の儀は勅使一行が両賀茂神社境内に進んで始まります。幣帛を供え勅使が橋殿で宣命を奏上すると、神職は本殿へ持っていき橋殿にかえる。そして神職は神から天皇への「返祝詞」をよみ、勅使と神職が一緒に拍手(かしわで)を打つ。その後奉納の神馬を引き回し、近衛の武官が東遊を舞う…とされています。(実際に見たことがないもので)儀式から解るとおり、神意と天皇の意の一致によって王城鎮護を願うものなのです。

 葵祭というとどうしても行列の華麗さに目を奪われますが、かくのごとくの宗教儀礼について考えると大変深い意味のあるお祭りなのです。
 
  腰輿(およよ)にも 葵の匂う みやびかな  空山房

≪参考文献≫
四手井綱英下鴨神社糺の森』 1993年 ナカニシヤ出版
岡田精司 『京の社―神と仏の千三百年―』 2000年 塙書房
三宅和朗 『古代の神社と祭り』 2001年 吉川弘文館
所 京子 『斎王の歴史と文学』 2001年 国書刊行会

 

京師賀茂祭之事 前篇

 昨日は五月十五日、賀茂祭(通称「葵祭」ですが正式には「賀茂祭」です)の路頭の儀・社頭の儀が無事奉修されたようです。

 私もかつて京師に遊学していた頃、一度だけ見に行きました。もう七年程前の話ですのでほとんど覚えていませんが…しかし、その後賀茂祭について調べる機会があったので今回はこのお祭りの凄さを記したいと思います。

 京都三大祭りと言えば、「祇園祭」「時代祭」、そして「賀茂祭葵祭)」ですが、この中でも時代祭は近代にできたお祭り、祇園祭は本来悪霊を払う御霊会という神仏習合の色濃いお祭り(そもそも祇園社は「祇園感神院」とも称されていた)で室町時代以降は京都の町衆・民衆のパワーを感じるお祭りです。ところが賀茂祭だけは大変に古く、また王権とも深くかかわる行事なのです。

 上賀茂神社(正式には賀茂別雷神社)・下鴨神社(正式には賀茂御祖神社)はもともと山城国に住む賀茂氏氏神で、『続日本紀』の文武天皇二年(698)に賀茂社の祭礼の記事が見え、『万葉集』にも大伴坂上郎女賀茂神社の帰途に詠んだ歌が残っているという大変に由緒ある神様です。
 またこの頃から賀茂社の祭礼というのは盛大に行われ、矢を射ることで時にけが人が出るほどでした。この為、奈良時代には禁止令がたびたび出ています。(井上光貞氏は8世紀中ごろに上賀茂・下鴨両社に分かれた理由は上賀茂社の祭の盛大に手を焼いた国家の宗教政策の結果ともみられると指摘しています)
 
 山城国・賀茂県主氏の氏神に過ぎなかった賀茂社に一大転機が起きます。長岡遷都、さらに平安遷都です。
 

延暦三年(784) 長岡京への遷都に伴い賀茂社に参議近衛中将正四位上朝臣船守を派遣して奉幣・遷都報告。その後すぐに上賀茂・下鴨両社の社殿が朝廷によって造営され従二位の神階が授けられる。
 ・延暦十三年(794) 平安京遷都に伴い参議治部卿壱志濃王(皇族)が奉幣・遷都報告。(従来伊勢神宮にしか見られなかった皇族の派遣)
 ・嵯峨天皇の御代 両賀茂社正一位の神階を授けられる。
 ・嵯峨天皇の皇女有智子内親王が斎王(俗称は「斎院」)となり、鎌倉時代初期の後鳥羽天皇の皇女礼子内親王が最後の斎王となるまで35人の斎王が任命される。 

 これらの事は賀茂社奈良盆地における大神神社に代わる王城鎮護の役割を担い、更に皇祖神である伊勢神宮に比するような待遇を受けたことをあらわします。

 ここで一つ注目したいのは京都の西、松尾大社です。賀茂氏と同じく古代から深く山城に根を張った氏族が渡来人系の秦氏です。この秦氏氏神松尾大社なのです。(因みに国宝弥勒菩薩半跏像で知られる京都・広隆寺秦氏の氏寺ですし、「太秦」という地名は秦氏の名残です)

 ではこの松尾大社賀茂社のように厚遇されなかったのか?…ちゃんと長岡京遷都時に従五位下に叙せられています。そして余り知られていないことですが、古くは賀茂祭の際には松尾大社にも幣帛が授けられていたようです。即ち、平安京鎮護の社として両賀茂社と松尾社は大変厚遇されているのです。このことは、秦氏が長岡遷都・平城遷都にはたした役割や桓武天皇の母・高野新笠のことも含めて興味深いところです。

…後編では実際の路頭の儀・社頭の儀の事に触れたいと思います。

「京師賀茂祭之事 後篇」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110518/1305719658

京師知恩院之事

 長く京都に逗留してました。
今回縁あって知恩院(浄土宗総本山)に数日通いましたが、三門から男坂通って伽藍に辿り着くまでキツイのなんの。

 

今年は法然上人の八百年御遠忌(本来春の予定でしたが秋に変更になりました)ということで、国宝三門の二層目部分と伽藍を図のように回廊でつないでいます。
…となると気付くことがあります。知恩院三門といえば高さ24メートル、幅50メートル、瓦7万枚という古建築の中では最大級の門です。男坂は10メートル以上一気に上がるような急な坂になっているということです。

 この事実は知恩院のもつ地政学的位置に由来します。徳川家の宗旨は浄土宗(祈願所とか墓所とかさまざまな宗派にありますが)です。
知恩院は江戸時代、大旦那である幕府によって巨大普請を繰り返されます。巨大な三門・御影堂、長大な石垣…一朝事ある時はいつでも城郭に代わるのです。

広大な敷地と大きな建物を持つ寺院を後詰や前衛所として使用する発想は、大なり小なり城下町設計に使用されます。伊達政宗ゆかりの松島・瑞巌寺もその機能があるとも言われています。


 
 この図は京都の現在地図ですが、浄土宗総本山である知恩院と浄土宗大本山金戒光明寺は江戸時代の大幹線道路である三条通東海道中山道の終点)を挟むような形になっています。
このニ寺院は城造りになっており、山門・石垣を有します。もし瀬田から大津・山科へと敵が京都に近付く有事の際は、黒谷と知恩院に兵を急派すれば三条通を封鎖できるという発想でしょう。現に風雲急を告げた幕末、京都守護職松平容保侯は金戒光明寺を本陣としました。三条通京都御所に見事に睨みを利かせられる場所です。京都に住んだことある方ならわかるように幕府の京都での中心、二条城は若干西寄りにあります。この点を補う機能をはたしていたわけです。
 二百五十年の泰平の後にはあまり機能しなかった有事体制ですが、徳川幕府のこの危機管理は現代でも考えさせられるところです。

 話は変わりますが、法然上人は江戸時代元禄年間に「円光大師」という大師号を賜って以来、御遠忌の度に大師号を賜るという特殊な習慣があります。

  大師号   天皇       年 号
 円光大師  東山天皇   元禄10年(1697)
 東漸大師  中御門天皇  宝永8年(1711)  五百回忌
 慧成大師  桃園天皇   宝暦11年(1761) 五百五十回忌
 弘覚大師  光格天皇   文化8年(1811)  六百回忌
 慈教大師  孝明天皇   万延2年(1861)   六百五十回忌
 明照大師  明治天皇   明治44年(1911) 七百回忌
 和順大師  昭和天皇   昭和36年(1961) 七百五十回忌


 そして今年、「法爾大師」という謚号を賜りました。一人で8つの大師号というのは例がないことなのですが、どこまで続くのでしょうか?
俗に「大師は弘法にとられ、太閤は秀吉にとられ」といいます。一般的に「お大師さん」というと弘法大師のことを指すことから起った言葉ですが、個人的には大師号は一つでたいへんに尊いものと思います。

   月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の こころにぞすむ

 これは法然上人の御作で「月光の照らさない所はないがそれに気付き一心に見る人にしかわからないように、仏の慈しみもみんなを照らしているけども一心に念ずる人こそ救いの心が生まれる」というような大意で、なるほど味がある和歌なのですが、「円光大師」という法然上人の最初の大師号はこの歌にも通じる大変有難い謚号だなぁと思います。

涅槃講式 第二段 その二

「涅槃講式 第二段 その一」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110412/1302616164

≪ 原 文 ≫

 時に大迦葉(だいかしょう)、荼毘の所に至るに、聖棺自然(じねん)に開(ひら)けて、千帳(せんちょう)の白氎(びゃっじょう)及び兜羅綿(とらめん)、皆解散(げさん)して、紫磨黄金(しまおうごん)の色身を顕出(けんじゅっ)す。迦葉諸(もろもろ)の弟子とともに、これを見て、悶絶して地に躄(たう)る。悲泣供養じ已って、香水(こうずい)を灌洗(かんせん)し、白氎を纏絡するに、棺門即ち閉じぬ。迦葉偈を説いて悲哭するに、如来重ねて両足(りょうぞく)を顕し出したもう。千輻輪(せんぶくりん)より千の光明を放って、遍く十方一切世界を照す。迦葉偈を説いて、哀歎して白さく。

  如来は大悲心を究竟(くきょう)す。平等の慈光二つなく照す。
  衆生感あれば、応ぜざることなし。
  われに二足千輻輪を示したもう。
  千輻輪の中より千光を放って、遍く十方普仏刹(ふぶっせっ)を照す と。

 その時に双足(そうぞく)還って棺に入(い)り、封閉(ふへい)すること故(もと)の如し。

 その後に復七宝の大炬火を投ぐるに、皆悉く殄滅す。如来大悲力をもって、胸臆(くおく)の中より火出でて、漸々に荼毘す。七日を経て、妙香樓を焚焼す。その時の哀傷幾そばくそや。豈図りきや。満月輪(まんがっりん)の容(こうばせ)、忽に栴檀の烟(けむり)に咽び、紫磨金(しまごん)の膚(はだえ)、 (あぢきの)うも無余の焔に燋(こが)るべしとは。惜んで尚余りあり。悲んで亦窮(きわま)りなし。大衆の悲歎、良(まこと)に所由(ゆえ)ありをや。その後に、天人大衆、舎利を分ち取って、各本国に還って、競(きお)って供養を修す。

 およそ一々の悲歎、翰墨(かんぼく)の記する所に非ず。仍って各々恋慕渇仰(かつごう)の思を凝して、伽陀を唱え礼拝を行ずべし。

 (伽陀) 嗚呼大聖尊  
      釈迦入寂滅
      今但聞其名
      惜哉我不見

   南無大恩教主釈迦牟尼如来生々世々値遇頂戴

≪ 現 代 語 訳 ≫
 その時に托鉢で遠くの村に赴いており、釈尊涅槃に間に合わなかった第一の弟子、大迦葉尊者が戻ってきて荼毘の場所に駆けつけました。すると大迦葉尊者を待っていたかのように御棺が開いて、釈尊の体を何重にも巻いた布や綿が皆とけて、あの紫金色に輝く御身体があらわれたのです。大迦葉尊者は居並ぶ弟子たちと一緒にこの奇瑞を見て、悶絶して卒倒しました。しかしながら最後のお別れの悲しみの涙を流しながら供養し終わって、香水を以て釈尊の御身体を清めて、また白い布を巻いて御棺を閉じました。大迦葉尊者が泣きながら偈文を唱えると、釈尊は棺の中から両足を出されました。この仏足の千幅輪から無量の光明が放たれ、この十方世界をあまねく照らしました。
 この有り難さに、大迦葉尊者は哀歎の声をあげて偈文を申し上げました。

  釈尊は大悲の心を極められた!どんな者も等しく釈尊の慈しみの光明をもって照らします。
  我々衆生釈尊を頼る心さえあれば必ず感応するのです。
  釈尊は私たちに尊い御足の千幅輪を現わされました!
  この千幅輪から放たれる無量の光は遍く全ての仏国土を照らします。

 こう唱えた時に釈尊の両足は御棺にもどって入り、元通り蓋を閉じました。

 その後に大衆はもう一度七宝で飾った大たいまつを投げますが、またしてもすべて消えてしまいます。釈尊は心の中の衆生を憐れむ大悲の力を以て火をおこして、その火でゆっくりと荼毘にふされていきました。七日間、火は燃え続けて香楼を燃やしました。その火を見たときの大衆の悲しみはいかばかりだったでしょう。豈図らんや、あの釈尊の満月のような御顔はたちまち白檀の香りの煙に咽び、紫金色の肌はやり切れなくも炎に包まれてしまったとは!なんとも悔やんでも悔やみきれません。悲しんでも悲しみきれません。荼毘の後に参集した大衆は釈尊の舎利を分けてそれぞれ自分の国に戻って、競うように舎利を供養しました。
 それにしても大衆の悲しみは筆舌に尽くしがたいものです。さあ、皆釈尊への恋い慕う気持ちを一心に念じて、伽陀を唱えて礼拝しようではないですか!

  ああ尊い御仏、
  釈尊はついに入滅し涅槃に入られた!
  今からはただその御名前を聞くだけで、
  惜しいかな!私たちはもうお会いできないのです。

   生まれ変わり死に変わりして幾千万世を経ても大恩教主釈尊を礼し帰依致します。


≪ 語 句 解 釈 ≫
【大迦葉】(だいかしょう) 釈尊十大弟子の第一。摩訶迦葉とも。「頭陀第一」と称され、第一回仏典結集を主宰した。
【白氎】(びゃっじょう) 木綿の白い布
【兜羅綿】(とらめん) 軽い綿・白楊樹の花
【香水】(こうずい) 香のある水・香または花を入れて神仏に供える水
【千輻輪】(せんぶくりん) 如来の三十二相の一つ。足の裏にある紋で千の車幅を持つ車輪のようなもの
如来は大悲心を究竟す…】 唐・若那跋陀羅訳『大般涅槃経後分』巻下 機感荼毘品第三の偈文からの引用
【大悲心】 大悲の心・大いなる憐れみの心
【究竟】(くきょう) 究極の・極め尽くす
【慈光】 仏の慈しみの光明・衆生を導く慈悲の光
【仏刹】 仏国土・浄土
【七宝】 七つの宝・宝石 金・銀・瑠璃・シャコ・コハク・メノウ・水晶など諸説ある
【殄滅】(でんめつ) 残らず滅する
【胸臆】(くおく) 心の中
【妙香樓】(みょうこうろう) 「こうる」とも。釈尊の遺体を火葬する時、宝棺を置いた楼。香木よりなる。
【哀傷】 悲しみいたむ。悲しみ嘆く。
【満月輪の容】 釈尊の身体的特徴である八十種好にある面浄如満月を踏まえた表現
栴檀】 candana 香木の一種。芳香を発する
【翰墨】(かんぼく) 筆と墨、転じて書のこと
【嗚呼大聖尊 釈迦入寂滅 今但聞其名 惜哉我不見】 菩提流支訳『大宝積経』三律儀會第一之二の偈文からの引用

備後尾道記

 松山からしまなみ海道を通って尾道へ行きました。しまなみは5年ほど前に一度通ったことがありましたが、尾道は初めてです。


 国宝・浄土寺多宝塔です。鎌倉時代の嘉暦三年(1328)建立の多宝塔で日本屈指の名塔です。
 日本の国宝指定されている多宝塔は実に少なく、大阪慈眼院多宝塔・和歌山根来寺大塔・高野山金剛三昧院多宝塔・和歌山長保寺多宝塔、そしてここ浄土寺と5件しかありません。これで慈眼院以外全部拝観させていただきました。


 こちらも国宝・浄土寺本堂。浄土寺は大変立派なお寺で国宝本堂・重文阿弥陀堂・国宝多宝塔と並んでいます。豪華です。


 千光寺に上る道、天寧寺海雲塔(三重塔)が見えます。前述の通りこの塔が「海雲塔」と聞いて「もしや『華厳経』の海雲比丘に関係してて、栴檀塔のナゾも解けるか?」と思いましたが、単に彫刻の模様に由来した名前でした。栴檀塔・海雲比丘について…「四座講式 表白段」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110328/1301295897


 千光寺から見える尾道の海。白帆が行きかっていて実に美しい!


 尾道は坂の街。こんな感じの映画に出てきそうな路地がたくさんあります。

 今回初めての尾道でしたが、如何せん四国から行ったもんで時間が少なかったのが悔やまれます。次回は福山あたりと合わせて行きたいなぁ…