涅槃講式 第二段 その一

≪ 原 文 ≫

 第二に荼毘の哀傷を挙ぐといっぱ、青蓮咲(えみ)を止(や)め、菓唇息絶えし時、白氎(びゃっじょう)に纏絡(でんらく)し、金棺に収斂す。

 一切の大衆(だいしゅ)、聖棺を挙げて、城(じょう)の内に入らんとするに、十六の極大力士(りきじ)、大神力を運ぶに、聖棺すべて動くことなし。その時に、聖棺自から飛んで、虚空の中に挙って、娑羅林より起(たっ)て、徐々として空(くう)に乗じて、拘尸那城の西門(さいもん)より入る。
 菩薩 声聞 天人 大衆、大地(だいじ)虚空に遍満して、悲号哀歎す。その時に、聖棺拘尸那城の東門より出で、右に繞(めぐ)って城の南門に入る。北門より出で、空に乗じて左に繞って、還て拘尸那城の西門より入る。かくの如く三迊(さんぞう)を経(へ)已(おわ)って還って西門に入る。又、東門より出で北門に入る。南門より出で右に繞(めぐ)って還って西門に入る。乃至かくの如く左右(そう)に拘尸那城を繞って、七迊を経て、徐々として荼毘の所に至る。飛び下って七宝師子の床に安ず。
天人大衆、聖棺を囲繞(いにょう)して、悲泣供養ず。その哀慟(あいとう)の声、大千を震動す。大衆各白氎を以て、手を障(さえ)て、共に大聖(だいしょう)の宝棺を挙げて、荘厳(しょうごん)せる妙香樓(みょうこうろう)の上に置く。

 将に火を挙げて如来を荼毘せんとす。この時に、一切の大衆、各七宝の香炬(こうこ)の、大きさ車輪の如くなるを持って、悲泣啼哭して、香樓に置く。その火(ひ)自然(じねん)に殄滅(でんめつ)す。一切の諸天の火、一切の海神の火、皆亦かくの如し。

≪ 現 代 語 訳 ≫
 第二に釈尊を荼毘にふす際の悲しみの様子を明らかにします。ああ、釈尊のあの青い眼が笑うことも無くなり、あの赤い唇が口をつむった時、御遺骸を白い布で何重にも巻き、御棺におさめました。

 集まった大衆は御棺を担いでクシナ城の中に入ろうとしました。そこで、十六人もの屈強なマッラ族が釈尊の御棺を担ごうとしますが、不思議と少しも動きません。途方に暮れていると、御棺はなんとみずから飛び上がり、中天に舞ってサラ林から大空をかけクシナ城の西門からゆっくり入っていったのです。
 菩薩・声聞・天人をはじめとする大衆の悲しみの声は空に満ち溢れ響き合っています。その時に釈尊の御棺はクシナ城の東門から出て右回りに廻って城の南門に入りました。さらに北門から出て
空を飛び左回りにめぐって、また西門から城へ入りました。このように三度繰り返して回り、西門から城へ入りました。今度は東門から出て北門に入り南門から出て右回りして最後に西門から入りました。このように左右にクシナ城を七回廻ってゆっくりと荼毘の場所へ至り、地面に降りてきて七宝で飾った獅子座に鎮座されました。

 大衆は御棺を囲んで悲しみに泣きながら供養しました。その悲しみの声は三千世界を震わすほどでした。皆それぞれ白い布で手袋をし、揃って釈尊の綺麗に荘厳した御棺を持ち上げて香楼に安置しました。
そしていざ火をつけて釈尊を荼毘にふす時がやってきました。この時皆それぞれ七宝で飾った大きな車輪のような松明を持ち、悲しみの涙にくれ泣き声をあげながら香楼に火をつけました。ところが、どの火も自然と消えてしまうのです。どの天人が投げた火も、どの海に住む竜王が投げた火も同じく消えてしまうのです。

≪ 語 句 解 釈 ≫
【荼毘】 jhapeti 焼身・焚焼・火化と漢訳する。死骸を火葬すること。
【哀傷】 悲しみいたむ。悲しみ嘆く。
【青蓮】(しょうれん) すいれんの一種 青と白とがきれいに分かれていることから仏の眼をあらわす
【菓唇】赤い果実のような唇 仏の唇
【白氎】(びゃっじょう) 木綿の白い布
【纏絡】(でんらく) まつわりからむ・まとう
【金棺】 仏祖及び高僧の死骸をおさめる棺の敬称
【力士】(りきじ) クシナガラに住むマッラ族のこと
【大神力】 仏の不可思議な力
【声聞】(しょうもん) 仏の教えを聞いて修行し悟る人
【七宝】 七つの宝・宝石 金・銀・瑠璃・シャコ・コハク・メノウ・水晶など諸説ある
【師子の床】(ししのゆか) 獅子座・仏の座る所・仏の座席 仏も一切の者の王者であるから人間の中の獅子であるという
【妙香樓】(みょうこうろう) 「こうる」とも。釈尊の遺体を火葬する時、宝棺を置いた楼。香木よりなる。
【香炬】(こうこ) たいまつ・かがり火
【殄滅】(でんめつ) 残らず滅する

釈尊の聖棺が自らクシナ城を廻る解釈図 赤⇒緑

「涅槃講式 第二段 そのニ」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110415/1302868629

松田真平氏「野中寺弥勒菩薩像の銘文読解と制作年についての考証」 後編

 前篇では研究史を扱いましたが、今回は本題の松田氏の論文です。
 前篇http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110402/1301747017

松田真平氏「野中寺弥勒菩薩像の銘文読解と制作年についての考証」(『佛教藝術』313号 2010年11月)

佛教藝術 313号

佛教藝術 313号

章立て
はじめに
一 全文の読み下し
二 第七字は「旧」や「朔」ではなく「洎」
三 第十八字は繰り返し記号の「〃」(々の略記)
四 第七字の「洎」の字形の成立事情
五 第十四字の「栢」の読み方をめぐって
六 羽曳野丘陵、野中寺付近の実際の樹相
七 「栢字」は「栢舟の操」からの引用で、野中寺のこと
八 第四十一字と第四十二字の「友共」という読みについて
九 船氏と大和川(まとめに代えて)

 松田氏は(株)ICD現代デザイン研究所文化財研究室、コンピュータ・グラフィック・デザイナー、元東大阪大学短期大学部非常勤講師で、CG技術を用いた文化財の復元をご専門にされている方のようです。
 
 論旨は銘文は666年刻、制作年は661年という従来の説を支持しながらも、麻木氏とは違う読み方を提示されています。冒頭の「丙寅年四月■八日癸卯開記」の■を「洎」(いたる)と読み、従来「知識之等」と読まれていた「之」を「〃」と釈します。
 さらに、野中寺周辺の樹林を調査し「栢」と考えられるヒノキ科の樹木やカヤが群生していたとは考えられず、「栢寺」という表現は未亡人の貞操をあらわす「栢舟の操」からきているとし、まとめとして水運に関係する渡来人の船氏の未亡人が野中寺を護持していたのではないかと指摘し、改めて野中寺弥勒菩薩像の666年刻説を支持されています。

 浅学を恥じずに申しますと、まず気になったところとしては、論文の形式が特徴的であるということです。私も東洋史学・美術史学の論文は読んできましたが、章立てを見て頂ければわかるとおり、章題で自説を主張されるというこの形式は初めてみたように思います。行数の短い章もありますし、若干違和感を覚えました。
 脚注で暦について『Wikipedia』を参照し、サイトから引用されていますが、これはいかがなものでしょうか。唐朝の暦に関しては平岡武夫氏の『唐代の暦』という労作がありますし、暦に関しては先行研究があるように思うのですが。ここで『Wikipedia』の正確性を論ずるつもりはありませんが、少なくとも研究論文に用いるのは後進の為にも適切でないと私は考えます。
 ■を「洎」(いたる)と読まれたのは新説です。『大漢和辞典』を参照すると、「①そそぐ。水を差す。②うるほふす。浸す。③及ぶ。及び。④肉の汁。(巻六・1086ページ)とあり、「いたる」という訓は出てきません。但し、③に「曁に通ず」とあり、「」の最後に「いたる」という訓があります(巻五・934ページ)金石文の用例も出されていますが、私はやはり「朔」なり「旧」なりの方が自然に感じます。
 野中寺周辺の樹木を調査されたことや、「栢」(これは美術史に於いて「栢木」を日本では何の木に充てるかという論争が長く続けられたいわくつきの言葉です)から船氏を野中寺護持の氏族とされたことは大変興味深く読ませていただきました。また、最後に述べられているように、この銘文の解釈ができないから、自説に合わないから偽刻だというような研究者の姿勢への疑問は全く同意です。
 
 私も野中寺を実際に訪れたことがあります。平成17年12月、野中寺で弥勒菩薩像を拝ませていただいた時、同行していた美術史を研究していた先輩が「この仏さまの銘文は大正期の偽刻などと言われているが、『河内国名所図会』の「弥勒」という記述は、江戸時代半迦思惟像がほぼすべて如意輪観音と称されていたことを考えれば重い。少なくとも近代の偽刻などということはないだろう」と解説してくれました。すると、そこにいらっしゃった御住職、野口真戒僧正が大変喜ばれ、「近年大正期の偽刻という学者が多くて困る。私達はそんなことは断じてなかったと言える」ということをおっしゃられました。

 そんな中、松田氏が冒頭に述べられている通り、大山誠一氏(聖徳太子非実在説を主張している人)が著書『聖徳太子と日本人』の中で「最近、先に野中寺の弥勒像を偽物と見破った東野治之氏が」と大変強く無礼な書き方をしておりびっくりしました。この本を読んだ方で一連の論争を知らない方はまず「野中寺の弥勒さんは偽モノか」と思うでしょう。問題の所在は銘文と仏像は7世紀のどのあたりの作かということにあり、且つこのように諸説挙げられているにも関わらず、弥勒像自体が偽物のような印象を与えます。如何に書き物とはいえ、このようなことは許されないと思いますし、仏さまを護持してきた先徳・郷土の方々に余りにも失礼です。私はこのお寺と御住職、仏さまを存じている者として怒りすら覚えました。

 以前も述べたとおり、この銘文には「天皇」という言葉があるために兎角研究者の立場や主張によって論ぜられます。また文献学・歴史学・美術史学、そして信仰者・宗教者それぞれの立場から様々な説があります。
 東洋史には(確か清朝考証学だったと思いますが)「孤例は採らず」(若しくは「孤例は証ならず」)という言葉があります。それぞれに一つしかない例、一つしかない説を振りかざすのではなく、どうか史学・美術史学に科学調査のような視点も加えたうえで総合して論じて欲しいのです。

 またこの問題のことではありませんが、余りに極端な論や著しく作為的に解釈した論、いわゆるトンデモ説などはいちいちにプロの歴史学者は否定して頂きたいと考えます。学者は反論するとその説を一定に評価したことになると考えているのか、無視が最大の反論というような立場の方が多いですが、とんでもない嘘でも信じる人はいますし、時がたつにつれて正当化されることもあります。『東日流外三郡誌』事件のことを我々歴史愛好者も歴史学者も忘れてはならないと感じるのです。

 …話がそれましたが野中寺の弥勒像をめぐる諸説には今後も注目していきたいと考えています。

涅槃講式 表白・初段 校勘記

 本日は四月八日。仏生会、俗に言う花まつりです。
このように大変な世相ではありますが、仏教徒としてお釈迦様の誕生を寿ぎたいと思います。

   誰れか歓喜の咲(えみ)を藍園の誕生に含み、痛惜の涙を双林の入滅に流さんや。

  

 これは涅槃講式表白段の一節です。先師明恵上人の喜びはこの文章からもひしひしと伝わってきます。声明としても「らーんんのぉんのー」と大変綺麗な音動の箇所です。


 さて、涅槃講式表白段・初段を一応終えました。ここで「校勘記」として解釈に迷った所や特記したい所を思いつくままに述べます。
 (本来「校勘記」とは中国正史の各巻末に複数の写本や刊本、記述の相違などを録するもので、厳密にいえば本意とは違います)


 ・「一々微塵毛端刹海」…これは微塵の中に大きな世界があるという『華厳経』の根底にある思想から来た表現だと思います。なんとも表現しにくく月並みになってしまいました。
 ・「それ法性は動静を絶つ。動静は物に任せたり。如来は生滅なし。生滅は機に約せり。」
   …動静は物に任せるんだけど法性にはない。生滅は機根によるんだけど如来にはない。と後ろの句を前にかけました。いきなり解釈し難かったんですが、これはやはり前にかけるんだと思います。
 ・「鞞瑟長者」…『華厳経』で善財童子が訪ねた長者…なんですがよくわかりません。=「安住長者」「鞞瑟胝羅」
 ・「海雲比丘」…先日、訪れた尾道・天寧寺の三重塔が「海雲塔」だったので、すわ『華厳経』関係かと思いましたが単に彫刻による由来でした。
 ・「且うは滅後弧露の悲歎を慰めんがため」…本によっては「頼るもののない一人ぐらしの人」というような訳がありますが、釈尊(頼るべきもの)のいなくなった悲しみととりました。
 ・「我当度脱三有苦の唱」…「大正新脩大蔵経テキストデータベース」の『華厳経』で見つけました。「唱」という以上は釈尊が言ったことと思いましたんで。
 ・「力士生地娑羅林の間にして」…「生地」には草木のある地という意があるのですが、そのままで訳すと「力士」がいきないので「生きている地」ともとって「マッラ族の住むクシナ城」と釈しました。
 ・「順逆超越して諸の禅定に入る」…この「順逆」は「順縁と逆縁」ということですが、どうも上手く表現できませんでした。

涅槃講式 初段 その四

「涅槃講式 初段 その一」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110330/1301491947
「涅槃講式 初段 そのニ」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110401/1301660527
「涅槃講式 初段 その三」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110403/1301806825

≪ 原 文 ≫

 青蓮の眼(まなこ)閉じて、永く慈悲の微咲(みしょう)を止(や)め、丹菓の唇黙(もだ)して、終に大梵の哀声を絶ちき。
 この時に、漏尽(ろじん)の羅漢は、梵行已立(ぼんぎょういりう)の歓喜を忘れ、登地の菩薩は、諸法無生の観智を捨つ。密迹力士は、金剛杵を捨てて、天に叫び、大梵天王は、羅網幢(らもうどう)を投げて、地に倒(たお)る。八十恒沙の羅刹王(らせっとう)は、舌を申(の)べて悶絶し、廿恒沙の獅子王は、身を投げて吠え叫ぶ。鳧鴈鴛鴦の類も、皆悲を懐き、毒蛇悪蝎の族(やから)も、悉く愁を含みき。狻虎猪鹿(さんこちょろく)蹄を交えて、噉害を忘れ、獼猴獒犬(みごごうけん)項(うなじ)を舐(ねぶ)って、悲心を訪(とぶろ)う。

 跋提河(ばっだいが)の浪の音、別離の歎(なげき)を催し、娑羅林の風の声も、哀恋の思を勧む。凡そ大地(だいじ)震動し、大山(だいせん)崩裂す。海水沸涌(ひゆう)し、江河(こうが)涸竭す。卉木叢林(きもくそうりん)悉く憂悲の声を出(いだ)し、山河大地(せんがだいじ)皆痛悩の語(ことば)を唱う。
 
 経に衆会(しゅえ)悲感の相を説いて云く。 或は仏に随って滅する者あり。或は失心の者あり。或は身心戦(わなな)く者あり。或は互相(たがい)に手を執って、哽咽(こうえっ)して涙を流す者あり。或は常に胸を搥って、大きに叫ぶ者あり。或は手を挙げて、頭(こうべ)を拍って、自ら髪を抜く者あり。或は遍体に血現れて、地に流れ灑(そそ)く者あり。かくの如くの異類の殊音、一切大衆の哀声、普く一切世界に震う。
 
 良(まこと)におもんみれば、八苦火宅の中にも、忍び難きは別離の焔(ほのお)なり。三千の法王去りたまいぬ。熱悩何物をか喩(たとえ)とせんや。
 仍って悲涙を拭い、愁歎を収めて、伽陀を唱え、礼拝を行ずべし。

(伽陀) 我如初生之嬰児 
     失母不久必当死
     世尊如何見放捨  
     独出三界受安楽

   南無大恩教主釈迦牟尼如来生々世々値遇頂戴

≪ 現 代 語 訳 ≫
 釈尊の青蓮華のような瞳はもう二度と開くことなく、衆生のことを思う慈悲の微笑みはもう見られず、赤い果実のような唇は閉じて、再び梵天のような清らかなお声も聞けないのです。
 釈尊涅槃の時、あらゆる煩悩を断じ尽くした羅漢といえども清浄な修行をおさめた喜びを忘れて悲しみ、菩薩の最初の段階である「歓喜地」の悟りの境地に至った菩薩といえども全ての事象は空であるという悟りを忘れて涙を流しました。釈尊を警護する夜叉神たちは金剛杵を捨てて空に向かって泣き叫び、梵天は殊玉の幢を投げ捨てて地面に伏してしまいました。八十恒沙もの羅刹たちを率いる王、可毘羅刹は舌をのばして悶絶し、二十恒沙もの獅子を統べる王、師子吼王は地面に体を叩きつけて吠え叫びました。カリ・オシドリといった鳥類も皆悲しみ、毒蛇・サソリさえも愁いに沈んでいます。獅子・トラ・イノシシ・シカも獲物を喰らうことも忘れて、大サルや猛犬も首を垂れて悲しんでいます。
 
 跋提河のいざよう波の音は釈尊との別れの歎きを誘い、サラの林の風の声も哀しみ恋しさを募らせます。ああ!大地は震え、山は裂け、海水は沸き上がり、大河は涸れ果ててしまいました。山林草木に至るまで悲しみの声をあげて、山河大地さえも釈尊入滅の苦しみを叫ばんばかりです。

 『涅槃経』には集まった五十二類の悲しみが次のように説かれています。ある者は釈尊入滅と共に殉じて命を絶ち、ある者は失神し、ある者は余りの衝撃に痙攣をおこしました。ある者はお互いに手を取り合って涙にむせび泣いています。ある者は自ら胸をかきむしって大声で泣き叫びました。またある者は釈尊入滅の悲しみのあまりついに発狂し、頭を叩いて自分の髪の毛を抜き、ある者は体中血まみれになり地面を血に染めました。このような五十二類の悶えと大衆の悲しみの声は三千世界を震動させるほどでした。
 
 本当に考えてみれば、あらゆる苦しみに満ちたこの世界において、人間の避けられない八苦の中でも、最も忍び難いのは「別れ」の苦しみでしょう。この三千世界の法王、大恩教主釈尊がこの世から去ってしまいました。この激しい苦しみを何にたとえられましょうか。
 さあ、悲しみの涙をぬぐい、ため息を止めて、伽陀を唱えてみんなで釈尊を礼拝しようではないですか!

(伽陀)  釈尊!私たちは生まれたばかりの子供のようなものです
      母親であるあなた様を失った今、すぐにでも死んでしまうでしょう
      釈尊!どうして私たちを見捨てて
      一人この苦しい世の中を出て安楽の世界に行かれるのですか?

   生まれ変わり死に変わりして幾千万世を経ても大恩教主釈尊を礼し帰依致します。


≪ 語 句 解 釈 ≫
【丹菓】 赤い果実のような唇
【大梵】(だいぼん) 梵天のこと 梵天の良き声から仏の清らかな声をあらわす
【漏尽】(ろじん) あらゆる煩悩を断じ尽くして阿羅漢の位に達した者
【羅漢】 阿羅漢の略 小乗仏教の修行の極意に達した者・聖者
【梵行】 欲望を断ずる行
【登地】 菩薩の階梯の十地の初地にのぼったこと 歓喜地の位に入った菩薩
【無生】 空
【観智】 心・ことわりを観ずる智・修行の智慧
【密迹力士】(みっしゃくりきじ) 金剛の武器を持って仏を警護する夜叉神の総称
【金剛杵】(こんごうしょ) 古代インドの武器 堅固であらゆるものを打ち砕く
【羅網】(らもう) 珠玉をつらねた網
【狻】(さん) シシ
【噉】(だん) 喰らうこと
【獒犬】(ごうけん) 大犬・猛犬
【涸竭】(こかつ) 川や池の水が涸れ果てること
【卉木】(きもく) 草木
【殊音】 死にそうな音
【八苦】 生苦・老苦・病苦・死苦・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦
【三千】 三千大千世界の略 古代インド人の世界観による全宇宙
【法王】 法門の王の意 仏を讃えていう
【熱悩】 心作用の一つ 非常に深い悩み 激しい苦しみ
【愁歎】 嘆き悲しみ

豫州松山記

 この春の佳き時節に伊予は松山に旅行に行ってまいりました。

    春や昔 十五万石の 城下哉  子規

 この句の通り伊予松山久松松平家、十五万石の城下町です。


早朝の湯築城址から松山城を望む
 
 湯築城はかつて伊予を治めた河野氏の本拠だった所です。その治世は平安末期から安土桃山時代まで約500年に及びます。その家紋「折敷に三文字」は鎌倉開府にあたって上から三番目の席次であったという伝説にちなんでいるほどで、西日本屈指の名族といえます。しかし、その名族も戦国時代には長宗我部氏に圧迫され、最終的には絶えてしまいます。
 河野氏の栄枯盛衰をかみしめながら、早朝の展望台のベンチで1時間ほど眠った私でした。


湯築城址の桜は河野氏の栄えの如く咲き誇っていました


萬翠荘

 萬翠荘は旧藩主である久松定謨(さだこと)伯爵が大正十一年(1922)に建てた洋館の別邸です。かつてフランスに留学した定謨伯は、当時38歳の建築家、木子(きご)七郎を欧州に派遣し別邸を設計建築させました。木子はその期待にこたえてこの見事な洋館を完成させたのです。
 この定謨伯、たいへん郷土を愛したお方で、有望な旧藩士の子弟に奨学金を出す「常盤会」という給付組織をつくり人材育成に努められました。その結果、言わずと知れた秋山好古・真之兄弟、正岡子規をはじめ加藤恒忠(子規の叔父・外交官のち松山市長)・佃一予(官僚・銀行家)・山路一善(海軍中将)・白川義則(陸軍大将)ら近代日本史に燦然と名前を残す人材を輩出したのです。
 定謨伯はこの萬翠荘を建てたときも国有物となっていた松山城を3万円で払い下げてもらい、さらに5万円の維持費を添えて松山市に寄付したそうです。大正末期から昭和初期、華族の不義密通といった不祥事や赤化がセンセーショナルに報じられ(特に維新の功臣の子孫・勲功華族に多い)、いわゆる「昭和維新」運動の原因の一つになったことを考えると、このような旧藩主の華族様は素晴らしいことです。跡を継がれた久松定武氏が戦後20年にわたって愛媛県知事を務めたことも納得できます。


萬翠荘と桜花


松山城はまさに花盛り


松山城天守より瀬戸内海に飛ぶ白帆がきれいに見えます

 今回の旅行は本当に天気に恵まれて幸運でした。五年ぶり三度目の松山でしたが、御時世か『坂の上の雲』をえらく押してます。以前はほとんどわからなかったんですが…とにかく松山は文化の薫る街です。

涅槃講式 初段 その三

「涅槃講式 初段 その一」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110330/1301491947
「涅槃講式 初段 そのニ」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110401/1301660527

≪ 原 文 ≫ 

 漸く中夜に属(しょく)して、涅槃時到れり。満月の容(こおばせ)に哀恋の色を含み、青蓮(しょうれん)の眸に大悲の相を現ず。僧伽梨衣を却(しりぞ)け、紫金の胸臆(くおく)を顕して、普く大衆に告げて言(のたま)わく。
 
    我涅槃しなんと欲(おも)う。一切の天人大衆、当に深心(じんしん)に我が色身を見るべし と。
 
 かくの如く三反告げ畢(おわ)って、即ち七宝師子の床(ゆか)より、虚空に上昇(のぼ)ること、高さ一多羅樹、一反告げて言わく。
 
    我涅槃しなんと欲(おも)う。汝等大衆、わが色身を見るべし と。

 かくの如く廿四反、諸(もろもろ)の大衆に告ぐ。
 
    我涅槃しなんと欲(おも)う。汝等大衆、我色身を見るべし。これを最後に見るとす。今夜見已(おわ)んなば、復(また)再び見ることなからん。

 かくの如く諸の大衆に示し已って、還って僧伽梨衣を挙げて、常の如く所被(きなお)したもう。如来復(また)、諸の大衆に告げて言わく。
 
    我今、遍身疼(ひいら)ぎ痛む。涅槃時到れり。

 この語(ことば)を作し已って、順逆超越して、諸の禅定に入る。禅定より起ち已って、大衆のために妙法を説く。所謂、

    無明本際(むみょうほんざい)、性本(しょうほん)解脱我今安住(がこんなんじゅう)、常寂滅光、名(みょう)大涅槃 と。

 大衆に示し己って、遍身漸く傾(かたぶ)き、右脇(うきょう)にしてすでに臥(ふ)す。頭(こうべ)北方を枕とし、足(みあし)は南方を指す。面(おもて)を西方に向い、後(うしろ)東方を背けり。即ち第四禅定に入って、大涅槃に帰したまいぬ。


≪ 現 代 語 訳 ≫ 
 いよいよ夜中となって涅槃の時がやってきてしまいました。釈尊の満月のようなお顔も悲しげなご様子で、青蓮華のように美しい眼には滅後の衆生のことを思う慈悲の御心が現れています。釈尊は大衣の袈裟をお脱ぎになり、紫金色の胸を露わにされて集まった大衆におっしゃりました。
 
    「いよいよ私は涅槃に入る。諸々全ての生き物たちよ、心の奥底に私の肉体を焼きつけておくように」

 このように三度言い終わると、すぐに金銀宝石といった七宝で飾った獅子座から中天に浮き上がり、タラの樹よりも高く上がったところでおっしゃりました。

    「私はこれより涅槃に入る!そなた達、私の肉体をしっかり見ておくがよい」

 このように24回繰り返して、再び集まった大衆におっしゃりました。

    「私はもう涅槃に入る!そなた達は私の肉体をよく見ておくがよい。これが見納めよ。今夜見終わればもう二度と見ることはあるまい」

 このように大衆に言い終わって、再び袈裟を肩にかけていつものように着直されました。釈尊はまた大衆におっしゃりました。

    「体中の節々が痛くなってきた…もう涅槃の時が来たようだ」

 こう言い終わって、すべての因縁を超越して静かな瞑想に入られたのです。やがて瞑想より起き、釈尊は大衆の為に説法されました。

     この世は迷いの世界ではあるが、一切の生き物は本来そのまま仏である。私は常寂光土という理想の浄土へと赴く。そこは「大般涅槃」という世界だ。

 大衆に言い終わるや、ゆっくりと体を横たえ右脇を下にし、枕を北に御足を南へ向け、お顔を西に傾け背中を東にされて伏せってしまいました。そうして最も尊い「第四禅定」に入られてついに大涅槃の境地へと達せられたのです。


≪ 語 句 解 釈 ≫
【中夜】 夜の中間・夜中 9時―1時或いは10時―2時
【青蓮】(しょうれん) すいれんの一種 青と白とがきれいに分かれていることから仏の眼をあらわす
【僧伽梨衣】(そうがりえ) 大衣・重衣とも。三衣の一つ。九条あるいは二十五条の袈裟。説法・托鉢の時につける。
【胸臆】(くおく) 心の中
【深心】(じんしん) 深い仏の境地を自己の心中に求める心 深く信じる心
【色身】 肉身・肉体 姿かたちを持った仏の身体
【七宝】 七つの宝・宝石 金・銀・瑠璃・シャコ・コハク・メノウ・水晶など諸説ある
【師子の床】(ししのゆか) 獅子座・仏の座る所・仏の座席 仏も一切の者の王者であるから人間の中の獅子であるという
【多羅樹】(たらじゅ) 棕櫚に似た木で高いものは24メートル〜25メートル。花は白色で実は赤色でざくろに似る。
【遍身】(へんじん) 体中
【疼ぎ痛む】(ひいらぎいたむ) 体が痛むこと
【順逆】 縁起を観ずる二つの方法 順縁と逆縁
【禅定】 心静かに瞑想すること
【無明本際性本解脱我今安住…】 唐・若那跋陀羅訳『大般涅槃経後分』にある「無明本際性本解脱。於十方求了不能得。根本無故。所因枝葉皆悉解脱。無明解脱故。乃至老死皆得解脱。以是因縁。我今安住常寂滅光名大涅槃。」からの引用
【無明】 迷い・無知・苦をもたらす原因
【本際】(ほんざい) 真理の根拠 過去・以前の状態 涅槃
【安住】 身も心も安んずる
【常寂光土】(じょうじゃっこうど) 法身の住する浄土・常住の浄土・絶対的な理想的境地
【第四禅定】 苦楽を離れた第四の禅定

「涅槃講式 初段 その四」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110407/1302178199

松田真平氏「野中寺弥勒菩薩像の銘文読解と制作年についての考証」 前篇

 今回紹介したい論文は松田真平氏「野中寺弥勒菩薩像の銘文読解と制作年についての考証」(『佛教藝術』313号 2010年11月)です。
   

佛教藝術 313号

佛教藝術 313号

 大阪・羽曳野市に「中の太子」として知られる野中寺(やちゅうじ)というお寺があります。このお寺の弥勒菩薩像(重文・金銅仏)は30、9センチという小さな仏さまですが、歴史学・美術史にわたる大きな論争の的になっています。

 というのは、この像の台座部分に62文字の銘文(金文)があるのですが、銘文に従うと天智5年(666)であるこの銘文は、本当はいつ彫られたものか?
 美術史としては白鳳時代の始まりの指標となるこの仏像が本当はいつ造られたのか?

 はじまりは東野治之氏の「野中寺弥勒像台座銘の再検討」(『国語と国文学』77(11)2000年)でした。東野氏というと2010年には紫綬褒章を受章された日本古代史の大家ですが、氏は像自体は7世紀末の造で銘文は仏像の存在と銘文の発見がスクープされた大正7年頃の追刻銘でないかと提起されました。
 以後歴史学の研究者の間ではこの銘文を偽銘・追刻銘とし、像自体も7世紀末〜8世紀の造という見解が圧倒的に多くなりました。
 特に冒頭の「丙寅年四月大■八日癸卯開記」の■を東野氏は「旧」と読み、元嘉暦(旧暦)と儀鳳暦(新暦)の併用された持統4年(690)以前の銘ではありえないとされました。
 
 これに対して麻木脩平氏が「野中寺弥勒菩薩半迦像の制作時期と台座銘文」(『佛教美術』256号 2001年5月)で東野氏に反論し、美術史上666年造という見方は動かず、銘文も■を「朔」と読み、像の作成直後に入れられたものと主張しました。また江戸時代の『河内国名所図会』に「弥勒仏金像」とあり、近代以前半迦思惟像がほとんど如意輪観音と考えられていた(有名な広隆寺の宝髻弥勒さえそう思われていた)にも関わらず、「弥勒」とあるのは銘文があったからだと主張しました。

これに対し東野氏が「野中寺弥勒像銘文再説―麻木脩平氏の批判に接して」(『佛教藝術』258号 2001年9月)で反論。やはり■は「旧」であり、銘文があったのなら『河内国名所図会』に銘文自体が掲載されるはずだと反論しました。

 さらに麻木氏が「再び野中寺弥勒像台座銘文を論ず―東野治之氏の反論に応える―」(『佛教藝術』264号 2002年9月)で再反論。「舊」を「旧」とは略さず、■は「朔」である。また、大正4年以前はこの像は秘仏とされており新聞報道の如く蔵に埋もれていたものではなく、新納忠之介氏(明治期の有名な美術評論家フェノロサ岡倉天心らと並んで日本中の秘仏を開けてまわった人)の鑑識もうけていたことなどをもって東野氏に反論し、さらに問題点を絞って提示しました。

 この銘文がここまでアツくなった背景には、銘文に「天皇」という文字が入っており、この銘文が本当に天智5年の銘とすると、天皇号成立時期の定説である天武・持統朝に先行するという問題もからんでいます。ここには歴史学・美術史学・文献学・考古学それぞれの乖離という問題が顕在化している点で大変興味深いことです。このことに関して先年新しい説と論考が出されたので紹介したく思います。

…が余りに長くなりましたので論文の紹介はまた次回。(軽く扱うつもりだったのにえらい大変な問題でした…)

後編http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110409/1302354728